風に舞う花びらのように、川面を流れる木の葉のように
「風流」という言葉がある。
主に、雅やかな様子や趣があることを指すと解されている。
けど、玄侑宗久さんという僧(兼、小説家)がテレビで説明していたことが印象に残っている。「風流とは仏教の用語で、思うがままにならないことを受け入れる心の余裕、つまり『揺らぎ』のことです」と。
仕事で雁字搦めになって身も心も限界が近かった時に、玄侑さんが喩えて「雨が降ってきたけど傘を持っていない。あぁ風流だねぇ」と説明していた言葉が、スッと僕の中に入り込んで心が軽くなって力が抜けた。
考えてみれば、人生には思い通りにならない物事なんて腐る程ある。というか、思い通りにならない物事の方が遥かに多い。自分でコントロールできる範囲なんて、世の中全体から見れば、ほぼ無いに等しい。
そういった、思い通りにならない事柄に対して、いちいち腹を立てていては心が保たない。怒ったところでそれが自分の思い通りに収まるわけではないのに怒り続けていては、余計に腹が立つだけだろう。
それに、思い通りにならない状況になる以前に、自分でもっと良くすることはできなかったのか、とも考えられる。例えば「急いでいるのにバスが全然来ない!ふざけるな、早く来い!」なんて状況はわりと良くあると思う。けど、まず自分がそんなギリギリの状況にならないために早く出発する努力はしたのだろうか。「自分の出発が遅れてしまったのだから、もうこれは仕方ない」と思えば、怒りの感情は萎んでくる。
その状況も受け入れて、バスが来るまでに他の車が何台通るか数えてみたり、普段気にしていない沿道の景色を楽しんでみたり。そんな風に状況を楽しむことが「風流」なのかなと、自分なりに解釈している。元々僕は怒りの沸点がとても低く、何かにつけて当たり散らしていたのだが、そう考えるようになってから怒ることが減った。
どうやっても自分では回避できない状況だったとしても、そのような厳しい状況が、そもそも自分の人生にとって本当に必要な試練だったのだろうか、と考えることもできる。ひろさちやさんという宗教評論家の著書の中で「諦める=明らめる」である、という説明があった。執着を手放すことで、物事の見通しが拓けることもある。状況に腹を立てることがあったなら、それは「気付き」のチャンスかも知れない。怒りに心を捕らわれて意固地になるより、物事をどう改善していくかという点に目を向けた方が遥かに建設的だし、自分の怒りが冷めるのも早い。
揺らぎとは相手に合わせる「共振」である。つまり何かにしがみつくような、己の中から生じるものは風流とは成り得ない。だからと言って、自分を押し殺せという意味ではない。何でもかんでもイエスマンになって相手に合わせる必要はない。ただ受け入れて、揺らぎから生じる新たな局面を楽しめば良い。
春風に舞い散る桜の花弁は、成す術もなく彷徨っているだけか?
川面に連なり浮かぶ紅葉は、寄る辺もなく流されているだけか?
違うだろう。流れに逆らわずとも、その予測し得ない動きで、人の手では生み出すことのできない美しさを描き出している。
揺らぐからこそ、新しいものが生まれる。揺らぎの中で、新しい自分に出会える。芯がしっかりしていれば、中身が伴っていれば、揺れても流されても楽しめる。
それが、風流ということ。