思考コイル
自分のこれまでの投稿を読み返してみたら、手直ししたい箇所がチョイチョイ見つかった。出来る限り自分の頭の中にあるものにマッチした言葉を選んだつもりではあるが、「やっぱりちょっと違うかな?失敗したかも」と思うこと多々。
けど、これはこれで反響を得たのであれば、アウトプットの形としては悪くないものだったのかな、とも思う。好意的な受け止め方をしてもらえたなら尚更だ。
もちろん僕の意図が正しく伝わってくれるならそれがベストではあるけど、考えてみたら自分が今まで手にとって読んでみた小説なりエッセイなり、著者の意図を正確に読み取って、それを正確に自分の中に取り込めたかといえば、そんなこともないだろう。
言葉を発するということは、自分の意志を伝えようとすること。と同時に、相手の内面に新たなインスピレーションを生じさせるという面もあるのだと思う。
前者がシンプルかつストレートに物質を相手に送り届けようとする行為だとすれば、後者は電磁誘導で相手方のコイルに電力を発生させるようなものと表現すれば良いだろうか。
それが時に大きな誤解を生むことになったりするわけだし、そういった誤解が無いように言葉を尽くしたいという話もした。だけど、「自分の意図が100%正確に伝わるはずだ」という考え方は、傲慢が過ぎるし、言葉の力を過信しているようにも思う。なぜなら、自分が思ったことを正確に発信できるかどうかと、相手がそれをどのように受け取るか、は別の話だから。
言葉は発した瞬間から、僕からは切り離された存在になる。そして、誰かがそれを受け取った瞬間、相手の物になる。こうして僕の思考は不可逆的に変質していく。
そういった「揺らぎ」も想定した上で、言葉は発した方が良いのだろうな。「揺らぎこそが風流」だという話もした。そうだ、他人は自分の思い通りにならないからこそ、人と人の交流は楽しいのではないか。
投稿の内容は推敲に推敲を重ねるべきだと思っていて、これまでの投稿のほとんどはそうしてきたんだけど、時には勢いに任せて書き上げてみたら、思ってもいなかった面白い揺らぎが生まれるのかも知れないね。
拾い集めたときと同じ手順で、今度は、落としながら歩いてみる。
すると、あとから歩いてくる誰かが、それを拾う。
見逃してしまう人もいるし、
そんなつまらないもの、と目を逸らす人もいるだろう。
誰が拾ってくれるかな。
誰も拾わないものは、そのまま化石になるのかもしれない。
拾い集めて眺めてみても、形はやっぱりただの形。
見つけるのは目だけれど、捉えるのは目ではない。
別のところが認識する。
君と僕との間に、それがあるね。
夢と思考の間にも。
(森博嗣「君の夢 僕の思考 You will dream while I think」より)