「好き」を伝えよう

若いときには、ずいぶん嫌いなものが多かった。
なにかを嫌いだ、と主張することは簡単で、気持ちが良い。
本当に嫌いだったわけではない。
嫌いだと思い込むことで、自分を確保できる、そんな幻想があった。
なにかを嫌いになることは、軟弱な自分には都合が良い。

若者は皆、好きなものを求めるのと同じだけのエネルギィを使って、嫌いなものを一所懸命探している。そうすることで、自分が明確になると信じている。
(森博嗣 「夏のレプリカ REPLACEABLE SUMMER」)


大学生の頃や社会人になりたての若い頃、己の人生観について、友人たちと語り合うことに夢中だった。人生観なんて言うと大仰な感じがするけど、それほど高尚なものではない。恋愛観や、バイトの愚痴、将来の夢とか、学校やサークルに於ける人間関係の諸々とか、さらには、時には少し背伸びして社会や政治まで、そういったあらゆる事柄に対する自分の考えと共に、
「自分はこういう人間だ!」
と主張する、「自分語り」と呼んでも差し支えないようなものだ。

酒を飲みながら「今夜は語ろう!」なんて言って、オチの無い自分語りを一晩中続け、時に相手の人生観に影響を受けて猿真似したり、時に「それは変だよ」と相手の人生観を否定して意見を戦わせたりした。

「若い頃」なんて言うと、もうそれをやらないのかと思われるかも知れないけど、そうではない。今でも時々やる(やってしまう、と言うべきか)。ただ、今と決定的に違うのは、話を組み立てる時に、当時は
「自分の嫌いなもの」
を中心に置いていたことだ。
嫌いな点を強調することで、好きな物事が人に伝わりやすいと思った。己の価値観に当て嵌まらない物事を否定することで、己の正しさを証明できると思った。そうやって「好き」と「嫌い」の間に境界線を引いて、両者を明確に色分けしたかった。それが自分という人間を確立する唯一の手段と信じていた。嫌いなものを並べることで、自分を形作る境界線がどんどん、色濃く、太くなっていく、そんな幻想を見ていたのだ。


だけど、とある出来事がきっかけで、嫌いなものを周囲にどれだけ積み上げたところで、好きなもののことは伝わらないと気付いた。
確かに、好きなものより嫌いなものを説明する方が簡単だ。だって「自分」という枠に対して「自分以外」の総量は遥かに大きいのだから、己の価値観に沿わない点をあげつらうことが簡単なのは当然だ。

当時の僕は、己の好きなものに対して、自信が持てなかった。「好き」という気持ちが自立していなかった。全ては、自分が軟弱だった故だ。

話が若干逸れるが、これまでにも何度か話したように、僕は乃木坂46のファンだ。Twitterなどでファンの言動を眺めることが良くある。大人数グループアイドルなので、人によっては嫌いなメンバーも居るようである。それは仕方ない事だと思っている。だけど、嫌いなメンバーをどれだけ否定して侮辱したところで、好きなメンバーの人気が上昇するわけではない。
それよりも、好きなメンバーの魅力を一つでも二つでも挙げていった方が、よほど多くの人がハッピーになれるはずだ。


基本的に、嫌いなものに対する言動にはネガティブなパワーが付き纏う。すると、それを見聞きする人、つまり自分の周囲の人に不愉快を撒き散らすことに繋がる。
また、嫌いなものについて考えるということは、わざわざ自分からストレスの要因を増やすことでもあり、己の精神衛生上も良くない。

どうせエネルギーを使うなら、好きなものを追い求めることに注力したい。



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英丸
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