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中国VCの先駆け、ヒューゴ・ション(熊曉鴿)の投資家人生

皆さんこんにちは。夏目です。

中国のVCといえば前回の記事で言及したSequoia Capital Chinaとそのマネージングパートナーであるニール・シェン(瀋南鵬)の名前が真っ先に出るかと思いますが、中国VCの先駆け、そしてSequoia Capital Chinaと双璧を為すのがIDG Capital率いるヒューゴ・ション(熊曉鴿)です。

中国ではSequoia Capital Chinaが中国IT業界の“半壁江山”(天下の半分)に投資していると言われていますが、残りの半分はIDG Capitalが投資していると言っても過言ではありません。特に、ヒューゴ・ションが中国のVC黎明期に、米国からIDGを引き入れ、TencentやSohu、Trip.comなどといった中国のスタートアップ史に残る名だたる企業に投資をし、急速な発展期を支えてきました。

そんなヒューゴ・ションとIDG Capitalですが、こちらも日本語の記事は少なく、あまり見当たりません。中国VCシリーズとして、中国VCの先駆けでもあるヒューゴ・ションは欠かせない存在なので、今回の記事でまとめたいと思います。最後までお付き合いいただけますと幸いです!

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米ナスダック市場にも上場しているYiren Digital(NYSE: YRD)の親会社、CreditEase(宜信)の創業者であるタン・ニン(唐寧)は“(中国のVC/スタートアップ史において)過去20年間、IDG Capitalは灯台として黎明期のVC/スタートアップを導き、先駆けとしても中国の急速な発展期を支えてきた”と語った。その言葉通り、ヒューゴ・ション率いるIDG Capitalなしには中国のIT業界の発展は語れず、彼は偉大なる功績を残した。

中国を代表する企業群、BATの筆頭であるTencentや、中国インターネット三剣士のチャールズ・ジャン(張朝陽)が創業したSohuなど、数多くの企業を黎明期から支え、彼らの躍進を見届けた。Sequoia Capital Chinaのマネージングパートナー、ニール・シェンが歩んできた輝かしいキャリアとは異なり、ヒューゴのファーストキャリアは、驚くことに国営工場の電気工事士だった。そこから鄧小平の鶴の一声で1966年から1977年の間、文化大革命によって中止された中国版センター試験である「普通高等学校招生全国統一考試」(通称「高考」)が1977年10月21日に復活し、ヒューゴはこの千載一遇のチャンスを掴み取り、大学へと進学。その後、米国への留学からジャーナリストとしてデビューを飾り、数年後母国・中国へと凱旋帰国し、VC界のトップへと上り詰めた。

ヒューゴの投資家人生は波乱万丈でありながらも、時代の寵児として中国のVC黎明期を駆け巡り、時代にその名を刻んだ。そんな彼の伝説的な投資家人生を振り返ってみたい。


幼少期の夢は電気工事士だったヒューゴ少年

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若かりし頃のヒューゴ・ション

1955年、中国の長江と黄河に挟まれた地域、華中地区に位置する湖南省湘潭市で生まれたヒューゴ・ション。彼の父親は地元の鋼鉄加工工場の幹部であり、ヒューゴは幼い頃から工場の図書館で本を読み漁るなど、好奇心旺盛な子供だった。そんなヒューゴも、父親や周りの影響を受け幼少期の夢は電気工事士であり、尊敬する人物も近所の電気工事士であるおじさんであった。

中学に進学すると、ヒューゴは物理学の奥深さに魅了された。加えて、当時中国はヨウ・シンネイ(楊振寧、1957年ノーベル物理学賞受賞)や、チェン・シュエセン(銭学森)など著名な物理学者を輩出し、彼も自然と電気工事士から物理学者を志すようになり始めた。しかし、運命のいたずらか、彼が高校を卒業した1973年は文化大革命の渦中にあり、大学に進学することは叶わず、ヒューゴは当初の夢であった電気工事士としての職についた。

四年後、ヒューゴは地元の湘潭鋼鉄加工場の一級工事士として黙々と工場で働いていた際、彼の運命を変える重大な出来事が起きた。それが1977年、鄧小平の鶴の一声で復活した中国版センター試験の「高考」だった。

夢叶わずも、新たな道を切り開く

1966年、文化大革命により中止された「高考」は、1977年に復活を遂げたが、その前の1970年には“工農兵”という一般推薦により、大学に進学できる制度が作られていた。“工農兵”制度とは、工場で働く上級工事士や、共産党の幹部、軍隊の宣伝員など、全国でごく僅かな労働階級でしか利用することができない制度であったが、ヒューゴは一級工事士として、工場からの推薦を得て“工農兵”進学を試みていた。しかし、「高考」が奇跡的に復活したことにより、彼の進学の夢は前倒しとなった。

同年11月、彼は地元の湖南大学の工業自動化専攻に応募。4年間の工場における実践経験と、高校でも理系の成績が特に優れていたヒューゴは、自身が理工系の学部に進むことを当然のことだと考えていたが、ここでまたもや彼の運命を狂わせる出来事が起きる。当時、中国は改革開放政策の波に乗るため、人材の育成に急を要し、その中でも外国語を巧みに操る人材を欲していた。そこで、「高考」の追試として、外国語試験を設け、受験生は皆英語やロシア語などといった言語を選択し、受けなければいけなくなった。ヒューゴはもとから英語に興味はあったが、辛うじて読み書きできるレベル。それでも、当時の中国においては貴重な外国語人材とみなされ、彼は第一志望の工業自動化専攻ではなく、湖南大学の英語専攻に合格した。

度重なる運命のいたずらによって、彼の夢や目標はその都度変わっていったが、それでもめげなかったヒューゴは英語を極め、ジャーナリストを目指すことを決めた。彼の父親は元々軍人であり、ヒューゴの幼少期によく戦時中の話をした。彼が大学進学した頃には、すでに戦争とは程遠い時代になっていたが、それでも中東地区は依然と紛争が続いており、当時新華社(中国の国営通信社)の戦場ジャーナリストが書いた記事を毎日のように読んでいたヒューゴは、その卓越な文章から、戦場における危機感と状況をその肌で感じることができた。そこで、彼は徐々に戦場ジャーナリストという職業に魅了され、英語専攻という専門性を生かすこともできることから、彼はジャーナリストを志すことを決めた。

1978年8月、鎖国状態から徐々に開国していった中国だが、この時期にヒューゴが在学していた湖南大学にも米国から訪れた英語教師が数名いた。彼らは湖南省岳陽市にある国有企業が購入した米国の大型工業機械をチューニングするエンジニアのご家族だった。中国での滞在が思いのほか延びたため、湖南大学は彼らのご家族を英語教師として大学に招き入れ、ここで、ヒューゴは当時の中国でも珍しく、"本場"の英語を学ぶことができた。

彼らが米国へと帰国する前に大学から教師たちに感謝の意を表すために、湖南省現地のメディアである湖南日報社の記者に依頼し、インタビュー記事を書くことにしたのだが、ここでもヒューゴはチャンスを掴み取り、元々記者が書くはずだった記事を、湖南日報社は繁忙を理由に実際授業を受けた学生に依頼することにした。そこで記者からインタビュー内容を受け取ったヒューゴは、「太平洋の彼方からきた友情」と題した記事を僅か二時間で書き上げ、それを湖南日報社に送り、その後もこの記事のことを気にすることはなかった。ところが、彼が書き上げた記事は湖南日報の見開きページに掲載されると、大きな反響を呼び、驚いたヒューゴは記事を確認すると、そこには一文字も修正が入っていない、自分の原文が掲載されていた。この出来事をきっかけに、ヒューゴは記者を志す気持ちをさらに固めると同時に、井の中の蛙になることを恐れた彼は、北京に上京し、大学院進学することを決意した。

落第から教師の道、そして北京の大学院から米国の大学院へと羽ばたく

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武漢大学の恩師(実際ヒューゴを教えたことはないが、「高考」復活を提言した教師の一人として、恩師と呼ぶ)を前に話すヒューゴ。彼は教育によって自身の運命を変え、世界有数のキャピタリストとなった。

大学を卒業した時点で、すでに26歳だったヒューゴは自らの夢を追いかけるために大学院進学の道へと進んだ。電気工事士から物理学者への夢を追いかけるも、電気工事士としてのキャリアをスタートさせ、「高考」の復活により理系の道を突き進むはずが、国の政策意向によって、英語を専攻。それでもめげずにジャーナリストとして新たな道を切り開いたヒューゴに待ち受けたのはさらなる茨の道だった。

学部を卒業後、自信満々で受けた大学院進学試験はまさかの不合格。ほぼ全ての課目において優秀な成績を収めたヒューゴだが、政治試験で合格点に届かず、僅か4点差で落第となった。これまでも数多くの挫折を経験したヒューゴだったが、大学院試験は自信持って臨んだ結果不合格となったため、かなりの落ち込みを見せていた。そこで湖南大学は彼に教職ポストを提示するも、北京への憧れと当時ヒューゴの母も彼が受験した年に病で亡くなったたため、悲しさを紛らわせるため、上京することを決意した。そこで、当時中国はまだ国家による職業分配制(計画型就業配置)だったが、大学の教師が気を遣い、彼を北京の就職先へと分配。そこで彼は北京の機械工業部(機械工業省)直下の研究部及び幹部管理学院にて英語教師と翻訳を務めた。

もちろん、落第直後こそ落ち込みを見せていたヒューゴだが、上京後彼は北京の発展を目の当たりにすると、記者への夢が再燃。1982年から1984年にかけて、大学院試験の準備をし、苦手だった政治試験を克服するため、北京師範大学の政治学補修クラスにも聴講しにいった。

彼の努力もついに実り、1984年、ヒューゴは全国大学院統一試験3位の成績で、中国社会科学院の英語ジャーナリズム専攻に合格した。英語ジャーナリズム専攻は当時新華社と中国日報社が共同で出資し、中国発の国際ジャーナリストを育成するために設立した専攻だった。大学院試験に合格したヒューゴは、ここ数年昼夜問わず、全ての空き時間を大学院試験の準備に費やしてきたため、張り詰めた自分の身体を休ませようと学部時代の同級生がいる大連へと向かった。彼の同級生は当時湖南大学を卒業後、中国科学院大連物理化学研究所の修士課程に在籍していた。彼を訪ねたヒューゴは、今後のVCキャリアを共に伴走してくれるIDG Capitalの共同創業者、ジョウ・チュエン(周全)にここで出会いを果たすとは思いもしなかっただろう。同じく中国科学院の大連研究所に在籍していたジョウは、ヒューゴが訪ねた友人と同じ寮だった。ヒューゴが旅行で大連に滞在した十数日で、二人は仲を深め、北京に戻った後も連絡を取り続けた。30年後、この二人が中国経済を牽引し、中国のデジタル社会を築く基盤となっていたことは、当時知る由もなかっただろう。

その後、北京に戻ったヒューゴはこれまで以上に勉学に励んだ。また彼の専攻の出資先である中国日報社にも幾度なく英語記事を寄稿し、読者からも良い反響を得ていた。そこでまたもや彼の運命を変える出来事が起きる。

当時、ヒューゴが在籍していた英語ジャーナリズム専攻のキャンパスは人民日報社の敷地内にあった。また人民日報社の敷地内には、他にも設立間もない中国日報社もあり、ヒューゴは食堂で食事を取る際によく中国日報社の記者と交流することがあった。彼らの記事の執筆を手伝ったり、ヒューゴ自身も音楽や演劇を嗜んでいたため、週末にイベントがある際には、中国日報社の記者として出席し、記事を書き起こしていた。そこで、彼の記事に目をつけた米コロンビア大学ジャーナリズム大学院出身の米国人教師がヒューゴにコンタクトをし、彼に米国への留学を薦めた。しかし、ヒューゴはやっとの思いで掴み取った大学院を易々と手放すことはせず、加えて大学院2年目に上がった時には新華社国際部中東・アフリカ局で実習することになり、彼の戦場ジャーナリストとしての夢にまた一歩近づいたことから、米国留学を頑なに拒んだ。

その後も、この米国人教師は諦めることなく、ヒューゴに米国留学を薦めてきた。彼もなぜ自分がここまでこの教師に留学を薦められているか不思議に思い、一度教師のもとを訪ね、その理由を聞いてみた。すると、教師はヒューゴの記事を“完璧すぎる”と話し、リアルな現実に対する理解が少なすぎるが故に、表面上の物事を綺麗に描き、結果として最高の記者になることはできないと彼に伝えた。自身が井の中の蛙状態になっていることに気づいたヒューゴは、自身がこれまで湖南省から上京してきた時のことを思い出した。加えて1980年代、中国は第一次留学ブームであり、多くの学生が米国や日本に旅立っていた。彼が大連で知り合ったジョウもその一人である。大連での修士課程を終えたジョウは、その後米ラトガース大学の博士課程に進学。そしてヒューゴが悩んでいる際にも、ジョウはニュージャージー州から北京に一通の手紙を送り、その中には“ヒューゴ、今すぐ米国に来なければ一生後悔することになるぞ”という一言のみ添えた。

この時、ヒューゴ・ションは31歳。ニール・シェンはこの歳ですでに米国のトップバンカーとして名を馳せていた時に、ヒューゴはやっと運命の手綱を掴み、米国への切符を手にした。

修士から博士、そして夢である記者の道へ

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米ボストン大学マスメディア専攻の修士課程を卒業したヒューゴ・ション

1986年8月23日、財布にわずか38米ドルしかないまま、米国に飛び立ったヒューゴ・ション。留学を薦めてくれた米国人教師の推薦状もあり、彼は米ボストン大学マスメディア専攻の修士課程にスカラーシップ付きで合格していた。大雨の中、ニューヨークに降り立ったヒューゴは、友人であるボブに迎えられ、入寮する直前まで彼の家で居候し、一歩先に米国留学していたジョウは、ヒューゴが米国に到着したと聞くと、すぐさまヒューゴに1,000米ドルを貸し、生活の足しにするよう伝えた。

人とのご縁に恵まれたヒューゴは、ようやく米国での研究生活を迎えたが、始業後、彼は真っ先にアルバイト探しに奔走した。手元にはジョウから貸してもらった1,000米ドルしかなく、生活するためには学業とアルバイトを両立するしかなかった。しかし、ヒューゴは始業当日に中国とベトナムについて研究をしていたトムソン教授のリサーチアシスタントと、大学付近にある自転車屋さんのアルバイトに応募し、見事両方とも採用。生活資金の目処が立ったところで、ヒューゴはすぐさま研究生活に没頭し始めた。それもボストン大学での奨学金は一年の給付のみで、経済的に余裕がないヒューゴは四学期分の単位を8ヶ月で収めなければいけなかった。

他の大学院生と比べて、アルバイトの時間を余分に割き、さらには2倍の学業をこなす必要があったヒューゴ。それでも彼は、中国で培った不屈の精神をもとに見事、8ヶ月で修士号を取得。この時期を振り返ると、ヒューゴは“何も自慢することはない。なぜなら努力をしなければ奨学金を得ることができず、学費も生活費もなくなり、卒業すら難しくなる”と話した。

卒業後、ヒューゴは彼の指導教員であるトムソン教授のもとで引き続き博士課程へと進んだ。トムソン教授はボストン大学以外にも、外交官のゆりかごと名高い米タフツ大学のフレッチャー法律外交大学院(通称フレッチャースクール、ハーバード大学とタフツ大学の共同運営)で教鞭を執っており、ヒューゴもフレッチャースクールに進学した。

フレッチャースクールに進学したヒューゴはこれまで以上に勉学に励んだ。それも修士時とは異なり、彼は長い博士課程におけるフルスカラーシップを指導教員、トムソン教授のサポートのもと取得し、アルバイトをする必要性がなくなったのだ。フレッチャースクールでは、従来のジャーナリズム以外にも、経済や経営、外交、国際関係など幅広い知識に触れることができ、記者としての知識体系を培うと同時に、数年後、彼がキャピタリストとして活躍する基盤を作り上げた。

1988年6月、ヒューゴのもとにフレッチャースクールのとある教授が訪ねた。彼は自分の友人が中国で雑誌を出版したいと話し、記者としてのバックグラウンドがあり、エレクトロニクスに詳しい中国人を探していた。ヒューゴは自分がまさにうってつけの人材だと感じ、彼に自薦したところ、友人の会社はすぐさまヒューゴを採用した。

この会社は当時米国最大のB2B出版社の一社であるカーナーズ・パブリッシングであり、米国で売れ行きが好調だった「Electronic Business」の中国版を創刊しようとしていた。夏休みの間だけ、アシスタントとしてカーナーズに入社したヒューゴは、ジャーナリストとしての経験だけではなく、4年間電気工事士として勤めた経験を存分に活かし、カーナーズ社で活躍。夏休み後も、カーナーズ社からフルタイムのポジションと、グリーンカードの提供をすると約束され、引き留められたヒューゴは、博士課程を続けながらも、アシスタントとして残り、「Electronic Business」の創刊に奔走した。

この時期に、ヒューゴは上記の雑誌の創刊と編集作業以外にも、「Asia-Pacific Business」というコラムを受け持ち、シリコンバレーで起業する華人起業家やスタートアップを中心にインタビュー記事を執筆していた。このコラムは読者の人気を博し、当初2ページだったコラムは、後に8ページにも増加し、一大特集ともなった。もちろん、起業家とスタートアップ以外にも、彼はこの時期に多くのキャピタリストを訪問し、そこで初めてVCという存在に触れた。ここでの経験は彼にとって、後日中国VCの先駆けとして、VCを中国に輸出する重要なきっかけとなった。

1991年4月、カーナーズ社は香港である雑誌出版社を買収し、ヒューゴを香港支社のバイス・プレジデントとして香港及び台湾市場の新規開拓を任されることになった。大昇進となったヒューゴだが、歓喜に湧かず、むしろ母国である中国の出版業界の発展に目を向けていた。なぜなら文化大革命からすでに十数年という時が経ち、中国の出版業界は急速な成長を遂げ、この時期に米国の出版社として中国に新規参入するのは絶好の機会だった。これらの内容を報告書にまとめ、カーナーズ社に提言し、中国大陸への異動を希望したヒューゴだったが、この報告書に対する返答は皆無だった。

知中派米国商人、パトリック・マグガバンと巡り会う

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人生の恩師、パトリック・マグガバンとヒューゴ

この絶好の機会を前に、成す術もなく、途方に暮れていたヒューゴは、友人のジョウにこの事を相談しにいく。ジョウは1990年に博士課程を卒業後、ボストンにある研究所で就職をしていた。彼の自宅からカーナーズ社までは徒歩圏内であり、ヒューゴも度々彼の自宅にお邪魔していた。1991年の年初、ヒューゴはいつも通りオフィスで記事を書き上げたが、どうも自分の文章に納得しなかった彼は、ジョウを呼び寄せ、彼に記事を評価してもらうようお願いした。すぐにオフィスへときたジョウは、ヒューゴの記事を手に取り、読み終えた後彼に“記事は特に問題ないよ。ただ以前と比べて勢いがなくなっている。つまり今の職にもううんざりしていると思う”と言い当てた。

ヒューゴは自分の記事を通して、ジョウがここまで解析できたことに驚きをみせると同時に、彼が今抱えている悩みをぶつけることにした。ジョウはヒューゴの境遇に理解を示し、彼に自分の夢を追いかけることを勧めた上である人物に会うことを勧めた。それが知中派米国商人であり、後にヒューゴの人生の恩師ともなるパトリック・マグガバンだった。

マグガバンは1964年にIDG(International Data Group)を立ち上げ、当時はメディア運営や出版業を営んでいた。彼が知中派と呼ばれる理由も、鎖国状態から開放されてからまだ間も無い時期に、中国へと度々渡航し、2004年末までに計91回訪問している。1980年には、中国の信息産業部電子科技情報所とIDGの間で共同創刊した「計算機世界」(Computer World)は中国の出版物上位10位にも度々ランクインするほどの雑誌となり、米国にいる中国人コミュニティからも一目置かれる存在となっていた。

実はヒューゴとマグガバンは面識があった。まだヒューゴがフレッチャースクールの博士課程に在籍していた時に、とあるイベントに出席したところ、臨時で通訳として借り出され、その時に通訳をした相手がマグガバンだった。その後も、中国版「Electronic Business」である「電子導報」が廃刊した際に、ヒューゴはマグガバンをインタビューし、中国市場に対する意見交換を行ったり、前述の電子科技情報所がカーナーズ社を訪問するために渡米した際、カーナーズ社は軽くあしらったが、その後訪問したIDGでは、マグガバン自ら客人を出迎え、丁重にもてなした。これらの点から、ヒューゴはマグガバンのことを信頼し、同じくマグガバンも競合他社のヒューゴを高く評価していた。

1991年7月、ヒューゴは香港へと飛び立つ前に、マグガバンに手紙を宛てた。前回と同じく、中国市場について話したいと、簡素な文面だったが、マグガバンは手紙を受け取った後に、ヒューゴへ電話をかけ、面談をセッティング。その面談で、ヒューゴは出版業界にかける思いと、中国市場の発展について語った。マグガバンは、自身と同じビジョンを持ち、中国、ひいてはアジアをまたにかける事業を展開をしたい中国人に賭けることを決意し、すぐさまヒューゴをIDGへと招いた。そこで入社前の課題として、すでに台湾で出版されていた雑誌の分析レポートを作るようヒューゴに伝えた。もちろん、この課題を見事にこなしたヒューゴはIDGの内定を勝ち取り、香港へと渡った。彼はIDGに入社する前に、最後の仕事としてカーナーズ社の香港支社立ち上げと、後継者採用を行い、3年間在籍したカーナーズを辞職した。

なぜヒューゴとマグガバンはお互いのことをそこまで信頼できるのか。とある記者がヒューゴにこの質問を投げかけたところ、彼は“人と仕事を共にする時、互いを信頼するか、そもそも相手にしないかの選択肢しか残っていない。僕とマグガバンさんはそういった意味ではお互い賭けに出たのだと思う”と話した。人生最大の賭けが、彼らの人生を更なる高みへと連れていった。

中国VCの先駆けとして中国のスタートアップ業界を支える

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左からSohu創業者のチャールズ・ジャンとマグガバン、ヒューゴ

1991年11月6日、IDGに入社したヒューゴ。入社以前から、マグガバンはヒューゴに対して、中国に帰国したらどんな事業を進めるのかという問いを投げかけると、ヒューゴはメディアへの投資と答えた。もちろん、この時はまだVCという概念すら、ヒューゴの中に浮かび上がってはなかったのだが、これを起点に彼の投資家人生が始まった。

1991年8月、まだカーナーズで引き継ぎを行っていたヒューゴは、湖南省の実家に里帰りをし、ついでに北京を訪れた。そこで、当時「計算機世界」を出版していた会社の社長であるシュ・ジンショウ(許金寿)を訪ねたところ、シュはもう一つの出版物である「国際電子報」の提携先である米国の会社が、契約を一方的に破棄し、提携先を探しているとヒューゴに話した。まだカーナーズの一社員であり、競合のIDGに転職することが決まっていたヒューゴは、この時シュへの提案を控えたが、IDGに移籍後、すぐさま提携を持ちかけ、合弁会社を設立。「国際電子報」はたちまちと業界トップの雑誌に上り詰めた。

ヒューゴの実力を再度確かめたマグガバンはここで、ヒューゴの人生の転機点となる仕事を依頼する。マグガバンは1989年末に、中国でPacific BITという会社に出資をしていたのだが、この会社の業績は不振だった。Pacific BITは、マグガバンの資産運用会社であるPacific Technology Investmentと、北京理工大学の英語名Beijing Institute of Technologyの頭文字を取った、トレーニングジムの機材を生産する大学発ベンチャーだった。技術力は申し分なかったものの、販売チャネルに困っていたPacific BIT。そこにマグガバンは"最終試験"として、ヒューゴの力量を確かめようと、彼を会社視察に向かわせた。すぐに、Pacific BITの問題を見抜いたヒューゴは、同じくジム用機材を販売するPacific Gymという米国の会社と連絡を取り、前者がデザインと販売、後者が生産というスキームで運営を始めたところ、わずか一年でPacific BITは黒字化し、マグガバンに200万人民元の収益をもたらした。

ヒューゴにジャーナリストとしての能力以外にも投資の能力を兼ね備えていることに気づいたマグガバンは、ヒューゴに全幅の信頼を寄せ、中国で投資業務を始めることを決意。1991年、ヒューゴはIDG代表直属のアジア業務開拓アシスタントとして、米国のトップVCと共に中国を視察。彼と同行したVCは中国への投資はまだ早いと判断したが、ヒューゴはマグガバンに先手を打つことを勧め、まずは少ない資金でスタートしても構わないが、誰よりも先に中国市場において投資を始める必要性を説いた。事実上、1993年にIDG Capitalが中国でファンドを組成した時には、まだVCという概念すらなかった。しかし、Sequoia Chinaが参入した時期よりも10年も早く市場に参入したIDGは、先発優位性を活かし、トップティアVCではなかったものの、TencentやSohu、Trip.comなどといった中国のスタートアップ史に残る名だたる企業に投資を実施。今では名実ともに、中国を支えるトップVCの一社となった。

IDG Capitalは当初、1993年1月にマグガバンが1,000万米ドル、上海市科学技術委員会が1,000万米ドル出資し、共同設立された官民ファンドだった。当時のファンド名もIDG Capitalではなく、上海太平洋技術基金という名称を使っていた。その後、IDGはそれぞれ北京市、広州市の科学技術委員会と同様のファンドを立ち上げ、一年で中国の主要都市にファンドとそれぞれのマネジメントチームを配置した。

今でこそIDG Capitalといえば、人材がひしめくグローバルファンドだが、設立当初、人材採用に困り果てたヒューゴはまず周りの友人から採用を始め、その後各地でファンドを立ち上げる際に出会った人材をヘッドハンティングするなど、かなり荒い方法で採用を進めていった。最初のメンバーは、この記事の中で何度も登場したジョウであり、文系出身のヒューゴを支えるIDG Capitalの頭脳役として入社。その後、ヒューゴとジョウが上海で不動産関連のプロジェクトを視察した際に、出迎えてくれたマネージャーのジャン・スーヤン(章蘇陽)、北京市科学技術委員会と官民ファンドを立ち上げる際、相手側の通訳として出席した国務院研究センターエコノミストのリン・ドンリャン(林棟梁)、広州市科学技術委員会とファンドの立ち上げ前に、友人の紹介で知り合った広東証券上場部主任のヤン・フェイ(楊飛)などを続けてヘッドハンティングした。こうしてヒューゴ・ションが掲げた“圧倒的にローカライズ”した8人の初期メンバーによるIDG Capitalが設立した。

面白いことに、8人の初期メンバーのうち、VC関連の経験があるのは唯一ヒューゴだけだったが、そんなヒューゴもカーナーズ時代にVCとの交流やインタビュー経験のみに留まる。VC経験皆無の初期メンバーによって設立したIDG Capitalは10年という機先を制し、今やアジアのみならず、グローバルに活躍するトップティアVCとなった。そんな初期メンバーは、“開始於偶然、終結於必然”(偶然に始まり、必然的な結果を迎える)とも言える。

ヒューゴ・ションの投資手法

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先日の記事で言及した世界互聯網大会にて、ヒューゴは「丁磊宴」や「東興局」には出席せず、鴻海科技(フォックスコン)の創業者兼CEO(当時)であるテリー・ゴウ(郭台銘)と面会していた。

まず、ヒューゴ・ションの投資手法を一言で表すと、ニール・シェン以上に"人"(起業家)を中心に投資を実施していることだろう。Sequoia Chinaを立ち上げたニール・シェンも、前回の記事で言及したように"(スタートアップの)初期の段階ではアートがテクノロジーに勝る。ではアートとは何なのか。アートは人だ。人という要素が投資判断の70%にも上る。"という言葉を残しているが、Sequoiaは一つの領域に注視し、その中で起業家をベースに判断している。しかし、IDG Capitalは一つの領域にフォーカスすることはなく、いい起業家がいれば投資をするという方法論を設立直後から大事にしている。

例えばシード段階で、まだビジネスモデルも確立しておらず、VCとの面談も幾度なく失敗に終わったTrip.com率いるジェームズ・リャンとニール・シェンに唯一出資したのも他ならぬIDG Capitalだった。その後も、「携程四君子」の一人であるジー・チーを筆頭に設立したHomeInnは同じくIDG Capitalから初めての資金調達を実施。すでにTrip.comの米ナスダック上場を通して、その実力を世に知らしめたが、ビジネスホテルのフランチャイズに疑問を示した投資家は次々とHomeInnへの出資を見送り、唯一手を差し伸べてくれたのがヒューゴ・ションだった。

他にも、IDG Capitalが手がけた有名な投資案件として中国を代表する企業群、BATのBaiduとTencentがあるが、両社もTrip.com出資時と同じく、周りからビジネスモデルに疑問を示され、面談は全て失敗に終わっていた。

Baiduは2000年1月に設立。当時はすでに120万米ドルのシードラウンドの資金調達を実施し、中国向けのサーチエンジンを開発するため、次の10ヶ月で1,000万米ドルを調達する必要があった。しかし、当時はドットコムバブルが弾けた直後であり、投資家は皆インターネット企業に対して警戒感を抱き、調達は難航した。その中でIDG CapitalはBaiduの創始者であるロビン・リー(李彥宏)の能力を信じ、シリーズAラウンドにリード出資。その後、Baiduは着実と事業を伸ばし、2004年のシリーズBラウンドでもIDG CapitalはGoogleと協調出資をし、2005年には米ナスダック市場へ無事上場した。

TencentもBaidu、Trip.comと同じく、一番資金に困っていた時、救世主のように現れ、出資してくれたのがIDG Capitalであった。1998年11月に設立したTencentは、3ヶ月後にOICQというチャットサービスをリリース。翌年6月には利用者数1,000万人を超えるほどの人気サービスとなったが、あまりにも急激なスピードでユーザーが増えたため、サーバーがパンクし、莫大な維持費用を前に為す術もなく、赤字が続いていた。そこで、創始者であるポニー・マー(馬化騰)自ら資金調達活動をするも失敗の連続で、NetEaseやLenovoにサービスごと売却する意向を表したが、どちらも興味を示さなかった。資金調達やサービスの売却にも失敗したポニーは、1999年深圳で開催された中国国際高新技術成果交易会に最後の望みをかけて参加。ここではマッチングイベントなども開催されていたが、そこでポニーは奇跡的にIDG Capitalと巡り合い、その他にも盈科数碼という会社と両社合わせて220万米ドルで40%の株式を放出することで合意し、最大の危機を回避した。その後、南アフリカのメディア企業であるNaspersによって、IDG Capitalと盈科数碼の株式を買い戻されたが、IDG Capitalの出資なくしては、今のTencentはないとも言える。

ヒューゴ・ション、そしてIDG Capitalの投資ポートフォリオを見てみると、BaiduやTencent、Trip.comを始め、Sohu、Xiaomi、360など中国スタートアップ黎明期を走り抜き、今や中国を代表する大企業が並ぶ。そんな大企業を支援してきたヒューゴも、IDG Capitalを立ち上げた最初の7年間はほぼ無収穫に終わっていた。その7年間を振り返ると、彼は自分が周りに恵まれた上で、常に誠実さを貫いたため今があると話した。IDG Capitalに出資したマグガバンも、毎年のように中国視察へ訪れていたが、結果が出ていないヒューゴを責め立てることなく、彼の話を聞き、いずれ訪れる成功を待ち続けた。その根本にあるのは、ヒューゴの誠実さと投資家としての忍耐力、そして起業家以上に大事にしてきた起業家精神だろうと周りは評価する。

実際、彼が中国でファンドを立ち上げた際に、TencentやBaidu、Trip.com同様、誰も彼のことを評価しなかった。なぜなら、彼らは諸外国での経験に基づき、中国でスタートアップの芽が出るのは数十年早いと判断した。ところが、IDG Capitalは周囲の予想を見事に裏切り、当初2,000万米ドルで立ち上げたファンドは今や200億米ドルを超え、世界有数のVCへと成長した。上記の企業以外にも、今ではBATに次ぐPinduoduoや、Meituan、iQiyiにも出資しており、引き続き中国のスタートアップ界隈で絶対的な影響力を発揮している。

ヒューゴの人生を一言で表すと、まさにIDG Capital初期メンバーの評価のように、“開始於偶然、終結於必然”(偶然に始まり、必然的な結果を迎える)、波瀾万丈な人生ではあったが、行く先で手を差し伸べる相手の手をしっかりと握り、人生のチャンスを掴んできた。そんなヒューゴの投資手法も、彼の人生観がしっかりと表れていた。

彼の経歴を振り返ると、ファーストキャリアこそ電気工事士だったが、その後ニール・シェンと同じく米国へと旅立ち、海外の経験を吸収した上で海亀(海外から帰還した人に対しての呼び名)として帰還。まるで明治維新期の岩倉使節団のように、彼らも改革開放政策と共に最先端の技術と知識を持ち帰り、自国の発展に寄与した。これからもヒューゴ・ションとIDG Capitalは引き続き中国のスタートアップ界をリードし、世界に羽ばたく企業を育成し続けるであろう。

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ヒューゴ・ションとニール・シェン、中国を代表する二大キャピタリストのまとめ記事をようやく書き終えました。彼らの経歴を振り返ることは、中国のベンチャーキャピタル史、ひいては中国スタートアップ史を理解する上でも、かなり勉強になるものかと思います。自分自身もこれまでしっかりと中国のベンチャーキャピタル史を学んだことはなかったので、このまとめ記事をきっかけにとても多くのことを学ばせていただきました。

余談ですが、改革開放政策40周年を記念する2018年12月22日に、中国国内のシンクタンク、センター・フォー・チャイナ・アンド・グローバリゼーション(CCG)と中国国際人材専業委員会は「中国改革開放海帰40年40人」というリストを発表し、その中にヒューゴ・ションを始め、ニール・シェンや、今回のシリーズで取り上げる予定のZhenFund創業者シュ・シャオピン(徐小平)、Hillhouse Capital創業者ジャン・レイ(張磊)、Sinovation Ventures創業者リ・カイフー(李開復)などといった中国を代表するVCの創業者兼マネージングパートナーが名を連ねています。彼らの功績はとても大きく、中国がイノベーション大国として世界で躍進を遂げた立役者でもあり、あまり日本で報じられていないコンテンツを本シリーズを通じて、引き続き皆さんに届けていきたいと思います!

また前回の記事と同じく、皆さんの参考用にニール・シェンとヒューゴ・ションの経歴比較図を作成したので、良ければみていただけると幸いです!

付録:ニール・シェンとヒューゴ・ションの経歴比較図

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