ロメロのゾンビ(1978)を観てみた
”ゾンビもの”との遭遇
ロメロのゾンビを観てみた。
私は、基本的にホラーというものが苦手である。
どこか迷信深い性格というのもあって、見終わってから暗闇に何か潜んでいるのではないか、天井に何かが張り付いているのではないか、
という恐怖に苛まれる。ビビり故である。
そんな私が夏だから、という安直な理由でもってゾンビを借りてしまった。
借りてから思う。
「どうしよう」
ドアを開けるたびに、開けたら目の前に屍人が立っていて、それに襲われる恐怖としばらくの間戦わねばならぬのだろうか。
あぁ嫌だ。
観ていないけど、もう返しに行きたい。
そんなことを思いつつ、おっかなびっくり観た。
すると・・・
ロメロのゾンビというのは、非常にノロいのである。
何だか、さほど怖くないのである。
どちらかといえば、ゾンビに襲われる恐怖を描くというよりは、”ゾンビというもの”が出現したことによって人がどういう心理状態になるか、を強調した作品だと思った。
ゾンビよりも人間側のドラマの方が多くないか、と。
それによってホラーというより、新手のシチュエーションの人間観察のようにも見ることができ、私はとっても楽しめた。
”ゾンビもの”の定石とは?
とはいえ”ゾンビもの”の定石が、きっちり配置されている点も見逃せない。
まずはあえて人を狭い空間に追いやること。
それによって、ゆっくりと、じわじわと得体のしれない怪物に追い詰められていく、というホラー特有のシチュエーションが形成される。
ただし、この作品では大きなショッピングモールのような場所を選択しているために人間側がより生活感を持って動いている。
それによって、長い時間、同じ場所に拘束された人間がどう行動するかを観察する面白さがある。緊張を解そうと、変にコミカルな行動をする人が居たり、アルコールやドラッグに走ってみたり。
そして、”ゾンビ”という存在がどういう動きをするのか、を映像としてかなりきっちりしたルールで動かしていることが、このロメロ版ゾンビの真骨頂なのではないか、と思った。
それは、
基本的に死なない
脳の機能が衰えていて「アー」とか「ウー」しか話さない
ゆっくりと動く
動物のように人間の肉を求める
知覚は限定的に可能
脳を破壊すると動きが止まる(死ぬ)
こうやって、ある程度ルールを持たせた”ゾンビ”を作ったことで人間側にも対処の余地を残した点が大きいのではないだろうか。
逆に言えば、そうした規則性がわかった人間から、ゾンビを「イジって」いくことができるということでもある。
これは、後に幾千と続く”ゾンビもの”を鑑みると、ここで既に”ゾンビ”という素材の”いじり方”を監督自ら示してみせ、
「みんなもこの素材で色々面白いもの作ってくれや」
というメッセージを残したようにも見て取れる。
”ゾンビもの”の面白さって何よ?
ゾンビという非現実な存在が跋扈する世界の中に居る人間を見る、という視点で見ると”ゾンビもの”は面白いのだと思う。
決して怖さだけではない、何等かの意義を見出そうとすれば、そうなる。
そういう視点を持つと、なぜか人間の行動や心理描写が過剰にデフォルメされていて、却って際立って見えてくるのである。
人間の動きがドラマチックになるのだ。
これはつまり、この監督さんは、もちろんゾンビが好きなんだけれど、それと同じくらい人間を面白がっているということではなかろうか。
現実としての人間を非現実の存在の中に放り込んでみると、より面白く見れる、ということだ。
それなら、ゾンビものでなくても良くない?
という声が聞こえてきそうだが、
ゾンビに追われる人間の動きを面白がれるかどうか
がゾンビ映画を楽しめるかどうかの一つの指標なのではないかと思う。
少なくとも私は楽しいと思いました。
それでは。
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