特別寄稿「坂井千明とヤシマソブリンと3冠馬」
それは、月曜日の府中だった。18歳、受験生の僕はありえないくらいの田舎から東京への進学を目指していた。前日のテストを終えた僕は、国分寺に住む従兄弟に連れられてはじめて競馬場に行った。もし1994年2月13日の日曜日、東京に雪が降らなければ、こんな人生では無い。ジェニュイン、ホッカイルソー、タイキブリザード、バブルガムフェロー。そしてもちろん、サイレンススズカやディープインパクト。彼らの姿に心打たれることも、決して少なくない経済的な損失を被ることも無かったはずだ。
今はなきメインスタンド18番柱横の通路から石畳に出たのは昼休憩の後だった。代替開催の月曜日と言うこともあり、閑散としていたと記憶している。ところが、である。6レース、はじめて馬券を買った最後の直線。背中を押し潰すような歓声が聞こえてきた。状況を鑑みると、1万人いるかいないかのはずなのに、「なんだこの熱量は」…。その日のメインレースが共同通信杯、ナリタブライアンの共同通信杯である。新聞の読み方も、パドックでの作法もおぼつかない僕は、明確な理由は思い出せないが〈ヤシマソブリン〉と〈ナリタブライアン〉の馬連を買った。8番人気のヤシマソブリンはいい感じで差してきて4着だった。なんかいい馬だねって府中の居酒屋で話した記憶がある。
僕は、大学を落ちた。浪人生はヤシマソブリンが気になった。坂井千明に乗り替わり(岡部はエアダブリンの主戦だったため)NHK杯2着、ダービー3着、ラジ短と福島民報杯優勝。そして菊花賞に向かった。現金書留で従兄弟にお金を送り、馬連を買った。ブライアンに勝てるとは思わなかったけど、勝ちにいって欲しいと思った。エアダブリン、着狙いの一方でヤシマソブリンは「負かしにいった」。名調子が聞こえてくる。「弟は大丈夫だ」「2着もヤシマソブリンでかたそうだ」「3冠馬〜」。勝ちにいった彼に勇気をもらった僕はブライアンが惨敗し、チトセオーが勝った天皇賞(秋)で大損害を受けた。
坂井千明とヤシマソブリン。少し大袈裟に言うと、渋いコンビに魅了され「競馬が好きになった」。ナリタブライアンと言う絶対的存在に立ち向かう姿に心打たれて育ったから、それ以降も穴党として生きている。ディープにも、オルフェにも、コントレイルにもイクイノックスにも歯向かってみた。もし、1994年2月13日が快晴だったら…もっとまともな人生を歩んでいたかもしれない。競馬との出会い方が違っていたら、本命党になっていたかもしれない。
でも、ヤシマソブリンと坂井千明を恨んではいない。
合掌。