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18歳のとき、渋谷センター街で出会った運命の仕事


#私の仕事

あれは、大学1年の5月でした。それまで片田舎の男子進学校に通っていていきなり渋谷センター街デビューしました笑。

というのも入った大学が渋谷にあり、アルバイトするなら渋谷だと交通費ももらえるし都合がよかったからです。当時の僕は、自分でいうのもなんですが、田舎から上京したての、あかぬけない感じのじゃがいもボーイ笑。

大学では経済学部に入ったので、将来的には、母の喜ぶ昭和の成功職業、銀行員か、学校の先生でもなれたらいいなとなんとなく思ってました。

当時大学生とはいえ、母子家庭出身の毎月仕送りなし、自分で家賃と生活費を用意する覚悟で上京したので、アルバイトをしないと即死亡となります。

とにかくなんでもいいから仕事を探さなくてはなりません。入学した4月そうそう。大学の掲示板で見つけた倉庫の仕分けの仕事は、まじめにやりましたが、ちょい退屈で1ヶ月で退職。

遊んでる暇はなくアルバイト求人雑誌と格闘。渋谷での仕事を探します。そこにあったのは、ケーキ屋さんの仕事。まぁ、なんとなく楽かなーとか、かわいいこいるかなとか、不純な理由で応募しました。他に、喫茶店、いまでいうカフェのバイトとかたくさん載っていましたが、地味な田舎ボーイの僕じゃ無理かな。派手なイケメンしか採用されねんべ、みたいに思ってました。特にセンター街だしー。みたいなー。

面接当日、お店にいってみるとなんとそこは、ケーキ屋さんではなくケーキをメニューで出している喫茶店でした(いまふうにいうとカフェ)しかも渋谷センター街をはいってすぐの超一等地。一瞬、面接の予約をしたものの、いもの俺で務まるんかなと、足がすくみました。しかし、アルバイトしないと家賃や食い物に困るので、いいやダメもとでと店の扉をあけました。

店長さんがでてきて、簡単に会話をしていつから来れるのとなり、明日からこれますというと即採用。ちょっと拍子抜け。いま思うと当時は、バブル時代の幕開け(何十年前の話しだ笑)ほんと、東京は、人手不足だったのです。

家のアパートに帰って、次の日のアルバイトのことを思うと緊張しました。喫茶店とやらには、どんな人達が働いているんだろう。イケメンで威張ってイキってる兄ちゃんや姉ちゃんかな。田舎出身のじゃがいもの僕は、ばかにされるんかなーとかいろいろ考えてました。

そして、次の日、いざ失禁

あっ、出勤。昨日いた店長さんは現場にはいなく、バイトの人達だけでした。さっそく今日からはいりました。○○です。よろしくお願いしますというと、うん、そうかとみんな優しい人達でした。丁寧に仕事を教えてくれ、お客さんの少ない時間帯は雑談大会。

しかし、前にもいった通り、センター街入ってすぐの超一等地なので、混む時間帯はハンパない。洗いものを永遠にやってました。

そして、アルバイト3日目の終わり、バイトの先輩達が僕の歓迎会をやろうといってくれ居酒屋にいきました。そこでみなさんと打ちとけることができ、仲間入りできたなと実感しました。

アルバイト中は、みんな仲いいので、お店が混もうが混むまいが、楽しくて仕方ありません。メンバーは、大学生やらフリーター、ちょい年上の人達ばかりでサークル気分で働いてました。

いま思うとイケメンな先輩が多く、なぜかみんな一流大学に通ってました。それまで田舎あるあるのイケメンイコールヤンキーが、くつがえされました笑。イケメンで頭いいとか、さすが都会やなー。勝ち目ねーやん。みたいなー。そしてそのイケメンプラス頭も性格のいい先輩達に都会の遊びを教えてもらい、徐々に、じゃがいも君の僕も、大人の階段を登っていくのでした。

そして、仕事では洗い物から始め、ドリンクの作り方や、ホールのウエイター、ドアマンまでこなし、お客さんとの会話を覚えていきました。すると、仕事が楽しくて楽しくてしょうがなくなりました。アルバイト始めて1ヶ月後には、店長に休みいりません。といい、人手不足のため、それが通り月30日働いてました笑。

そしてその頃には、将来は、絶対に自分のお店を開くと思ってました

しかし、内心には、母の喜ぶ、銀行員や学校の先生にもならくちゃなとも思いました。

偶然出会った飲食店の仕事ですが、あとで思うと運命だったのかなと思いました。

自分は、小さい頃から母子家庭で、母が小さな会社の事務員として働き育ててもらいました。親戚や身近に飲食店をやっている人はなく、大学入るまで仕事イコール、会社員、学校の先生くらいしか思いつきませんでした。

しかし、のちに小さいときに離婚して離れた父の親が飲食店を立ち上げて大成功したのを、聞きました。

僕からみるとおじいちゃんとおばあちゃんです。その話しを詳しく聞いたのは、そこから、約10年後。父が脳梗塞で倒れ、身寄りがいないので、僕がアパートを借りて一緒に住むことになりました。そのときに、いろいろ父から父の小さいときの話しやら、おじいちゃん、おばあちゃんのことを聞きました。

おじいちゃんとおばあちゃんは、昭和の初めにまずリアカーを引き、魚を仕入れて近所の人達に売り初めたそうです。そこから徐々に売り上げを上げていき、その地方都市で初めて東京の築地の市場から魚を仕入れたお店になったそうです。そして、築地に通ううち、おばあちゃんは、ある業者さんと仲良くなり信用を得て、仕入れ代金を一年待ってもらう離れ技をしたようです。そこでたくさんの利益を出し、魚屋から割烹料理のお店を開くことができました。父によると、おばあちゃんは若い頃、○○小町といわれた美人でトークもできたようで、その割烹料理屋は大繁盛

税金納税額がその市で2位だったみたいです。そして、おばあちゃんの上の娘二人は違う都市に嫁ぎお寿司さんや、旅館業で成功。一番下の娘(父の妹、僕からするとおばさん)は、フランスのパリ大学に留学。その後、おばあちゃんの割烹料理の敷地内にフランス料理店を開業して成功と。飲食一家だったのです。

そして長男だった父はというと昭和の初期は、とにかく長男が大切だったようで、子供の頃から過保護。甘やかされて育ってようで、おばあちゃんのモーレツ主義についていけなかったようです。長男として割烹料理屋を継ぐため、東京に修行に行っている際にギャンブル、酒などの遊びにはまり飲食離脱。日雇いなどしてその日暮らし。嫁と子供(僕と姉)と離れ家庭崩壊。

そんなこんなで僕が、喫茶店で働いてビビっときたのは、おばあちゃんのDNAがつき動いたんだなと確信しました。

その後、自分はというと大学4年間、いろいろな飲食店でアルバイトして、その後、お金を貯め、自分のお店を開くことができました。

来月で、僕のお店も、24年目に突入します。相変わらず、お店にたつと仕事をしているというか毎日遊んでる感覚で、あの18歳で出会った喫茶店時代の楽しさとなんら変わりありません。

飲食店が潰れずに20年続く割合は、0.3%だそうです。僕のお店は、いまも好調であと20年は、いけると思います。もちろん、常連さん達のおかげです。

おばあちゃんは、亡くなったとき、商売してきた○○市に多額の寄付をしたそうです。

一度も、あったことない(正式には僕が0歳のときにお祝いもってきたのでそのとき最初で最後にあった)

僕のおばあちゃんを見習って飲食業をこれからも頑張っていきたいと思います。


#渋谷 #センター街#バブル#喫茶店#18歳





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