自分の本分を認めること
できないと認めるところに安心感があった。
僕は、これまでの大学生活、自分の想像以上に、いろんな経験を積んできたと思う。
ただその行動の裏側に何があったかと考えると、何者かになりたい。それも早く。
そんな感じだったんだと思う。
人生は妥協だ。諦めると楽になる。
そんな言葉が嫌いだった。だから、こんな風になりたいと思う大人に会いまくった。そして、自分を変えようと思った。自分の人生も。
今振り返ると、わかったことは人には特性があるということだったかもしれないと思う。といっても、同じ人でも年齢によって変わるのかもしれないが。
ビジョンをもって、実現に向かって動ける人。そんな人にあこがれる。
僕もそうなりたいと思っている。
しかし、そこに僕の思い込みがあった。
そんな人は起業家にしかいないと思っていたということだ。
そして、話を聴きに行く人は、気づけば起業した人たちばかり。
逆に世界が狭くなっていたし、分断させて、”そっち側” の世界にすがっていたと思う。
ある起業家の話を聴いて、あなたもこっち側に来てみませんか?
という言葉が本当に嫌だった。が、そっち側にすがっている自分に気づいて、とても恥ずかしい。(笑)
僕の本分だが、
どこかに突き抜けるには結構なエネルギーが必要。
踏み出す際のエネルギーがとても必要。
どっちも認めるところに僕の強みがあると自分では思う。
自分にとって『何者かになる』とは、なにかに『突き抜ける』ことだし、
そのことによっていろんな人から『自分という存在を認めてもらうこと』だ。
でも、もう少し足りないと今は感じる。
皆、何者かである。そんな世界として今度から見てみようと思う。
起業していなくても、経済的にうまくいっていなくても、
家庭内でうまくいっていなくても。
なんかこんな風に言うと、エネルギーは湧かない。
むしろエネルギーをゼロにする人みたい。(笑)
『何者かになりたい』それは立派なエネルギー源だと思う。
でも、僕はその先で、誰かと分かり合えなくなることがもっと苦しい。
分かりあうなんてできないことかもしれないが。
僕は明らかに優柔不断だし、何をしているのかはっきりしないし、
自分の意見はないときが多い。
そこに劣等感を感じていたんだろう。
だから、頑張れた。自分を変えたいと思った。
ぶれない自分の軸をもって、自分の意見をもっている人にあこがれた。
自分を変えようと努力してきたことが僕にもたらしたもの。
それは、自分には他には代えられない本分があるということ。
もっと簡単に、抽象的な言葉でいうと、
自分を変えようとして、変えられない自分に気づいた とか、
自分を変えようとしたことで、自分は変わらないことに気づいた とか
言えるんだろうと思う。(あくまでも僕の経験談ですが)
どっちつかずで、自分の意見を持てとか、自己中になっていいよとか、
遠慮しすぎとか、優しすぎるとか、沢山の表現で言ってもらってきた。
それを単に”弱み”ととらえていた自分がいただけだった。
今は、それでいいや。って諦めました。(笑)
あ~、何者かになりたいな!(笑)
何者かになる前に、自分が何者であるのか
を、認めることから始まる何かがある気がしています。