序文
そうは言っても私、音感が割かし特殊で(作曲には困らないのですが)「ソルフェージュ」が苦手なので、ジャズは耳がついていかないし、即興も出来ないしで、全くもって「ジャズファン」ではありません。
スタンダード曲もあまり好きなのが無いし、好きなプレイヤーも居ない(強いて言うなら Anomalie だけど別に聴かない)し、巨匠や名盤など興味が無い…。
以降は、「とんだ不届き者の戯れ言」だと思って頂いても結構です。
しかし私から申し上げるのは「多くの辻褄が合った」ということのみです。
なぜ7thまで積むのか
「コードスケールに染まったジャズ」というジャンルが一つあります、と思って下さい。
この世界観では必ず、(理論上)コードネームは 7th まで積みます。
トライアドが忌避されます。
そうする理由と経緯の解明は、中々難しいものがあるとは思いますが、
……まず「転調しまくりたい・キーの諸々から自由になりたい」という欲求が、いつからか西欧の音楽家の血には流れており、そしてそんなことをしていたら、元々 自分たちが大事にしていたはずの「主調」という概念の価値が薄れてきたので、転調する意味というものが、「主調からの相対座標」から「転調する行為そのもの」へと変遷していきました。
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そしてジャズでは一時期を境に、「キー」という制度ではなく、代わりに「TDS機能」のみを、起承転結の拠り所にしようとしたっぽいです。
トライアドのメジャーコードというのは(長調の場合)Ⅰ、Ⅳ、Ⅴの全てに共通してしまっており、「Dなのか否か」すらも、「主音 / 主和音」という概念・つまり “キー” の文脈を参照しないと自明ではないものだったので、
「7thまで必ず表示する(加えて必ず鳴らす)」ことによって、「緩急」または「起承転結」を自明化しようと考えたっぽいです。
というわけで、彼ら(ジャズの人々)にとって、コードという存在は常に「TDS機能」を体現――最低限「Dか否か」を体現している存在でなくてはならない、のだという仮説をここに立てます。