名無し峠
誰しもが幼少期に、大小のトラウマを抱えているだろう。
しかし私にとって「トラウマ」とは、怖い目に遭った・酷い目に遭った、から生じるものでは必ずしもなく、指摘したいのは「単に曖昧になっている記憶」それ自体が、トラウマ的構造体になり得るということだ。
先日9/14、新宿「LOFT/PLUS ONE」にて開催された映像上映イベント、「FRENZ 2024」夜の部にて上映された、Mr. 様 による自己解釈MV※。
https://twitter.com/MR_UV_MST_18
注:以下を読み進めていただく前に、是非MVを一度ご覧下さいませ。
🍂
🍂
🍂
「名無し峠」の筋書きは、
ただし、小説のような形で詳細なエピソードが固めてあるわけではなく、実際に曲中歌詞に於いても、抽象的な表現で「匂わせる」に留めてある。
同級生はその後どうなったのか。知らない間に見つかっていたのか。
見つかっていないのか。生きているのか亡くなったのか。
そもそもそんな同級生は本当にいたのだろうか。いたなら誰だったのか。
幼心には、「あの缶蹴りをした日に、居なくなった同級生がいた」ということを強烈に記憶しているものの、その後 事件になったような記憶が無く、よくよく考えてみると、どうにも整合性が取れない。
皆で探し回った記憶も、あるいは葬式に出席した記憶も無い。
そもそもなぜ、「居なくなった」ことを知っているのに、自分はその日、誰にも伝えず・誰とも話さず、一人 探すこともせず、帰路についたのか?
この曲は、そんな「不気味な不整合」そのものが、主要な主題である。
🍂
小さな子供の時分というのは、「現実と夢想の境界が未だ曖昧にしか認識できていない」というか、物心という言葉があるが「寝ても覚めても白昼夢の中にいる」ような感覚に覚えがある方は、少なくないのではなかろうか。
「子供には霊感がある」、「昔は霊が見えた」というような話は、無粋な合理的解釈を与えてしまう立場ならば、先のような「頭の中で考えたこと(睡眠中の夢※を含む)と、実際に見聞きした体験との区別が、曖昧に記憶されてしまっている」というようなトリックなのだろうと私は考えている。
だからその意味で、私は「曖昧に記憶されてしまっている記憶というのが(その内容の性質を問わず)単体で怖いものたり得る」と考えている。
🍂
過去のあの日に行って、真実を確かめて来ることなど一生できない。
かと言って、嘗め回すように記憶の隅々まで思い返すことも、億劫で。
今となってあの場所を訪れたとて、火に油を注ぐかのように、きっと何も分かりはしないのだ。
だからと言って、その記憶が「頭の片隅にこびり付いたままでいること」をやめてくれることなど、一番ないことを自分が一番 知っている。
🍂
山間の手狭な自然公園で、ひとり姿を消した人間。
厭が応にも、恐ろしい・薄気味悪いシナリオばかりが浮かんでは消える。
あの日 視界の隅で弧を描いていた鳶だけは、上空から一部始終の何もかもを目撃していたのだろうか。
🍂
🍂
🍂
曲の中で、語り手はある「儀式」を行うことによって、怯える自分と決別しようと・前を向こうと決心する。
怖れと綯い交ぜの苛立ちから、ある日 道端のゴミを蹴り飛ばしたことで、彼はその「儀式」を思いついたのである。
当初 私は、全ての指示語を「其処」「此処」などと厳つい漢字表記に統一していた。しかし、ラスサビだけは平仮名に開いた歌詞にしていた。
何故ならラスサビの歌詞のみ、正しい漢字表記は「底」だからである。
🍂
語り手は、全てを「子供の遊び」に落とし込めてしまうことを考えた。
いつの時代も子供とは、無邪気でそれゆえ残酷なものだ。
峠から谷底へと、空き缶を蹴り落とす。
そら “お前” が鬼だぞ。取って来てみろ。
「元の場所」に立てに来れるものなら、立てに来てみろ。
思いきり蹴り飛ばしたままのノルアドレナリンに任せて、語り手は鼻歌を歌いながら峠を後にする。「唄」とは時に、魔除けの役割である。
二度と捕まってなるものか。全力で遠く離れる。
しかし「事も無げ」に。
あの日の降り敷く雨も、あの日の虫の声も、怖くなどないと。
記憶と空想、己が想像力に踊らされて怯えるなど、最も馬鹿らしい。
俺が居るのは、今日の自分なのだ。
奴はもう今は昔、伝聞過去の逸話として死んだのだ。
全てに「けり」をつけに来たのだ。
まさにさっき、全てにケリをつけたのだ。
🍂
なお、本ストーリーは実話や体験談ではなく、全フィクションである。
私のオリジナルのMVの方は、「都市伝説」そして「ホラーFLASH黄金期」をテーマに、やたらと画質を落としたMSゴシックを用いたものである。
写真は全て私の地元で撮影したもの。もう幾度も訪れる場所ではない。
🔹
曲にももし興味を持って頂けましたら、私はこういうものです。