「専門家」という制度の陥穽
優しいんで、「陥穽(かんせい)」は「落とし穴」という意味です。
「“専門家” という制度の落とし穴」でも全然よかったけど、なんか「制度の落とし穴」でセットの(いま都合悪い)意味を形成しそうに見えてきたので、難しい言葉使いました。
この記事は(いつもかもしれませんが)多かれ少なかれ、特定の立場にある人の神経を逆撫でするであろう内容です。でも重要な指摘だと思うから、します。「遠慮」も「体面」も「沽券」も解しない、子供のように。
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1(※段落は「他記事からのリンク」用に設けただけです。)
言いたいことは一言で言えます。「共感能力の高い奴は心理学者になんかならない」という話です。いやわからんよ?いつだって例外は居る。
でも有意な傾向があるだろうと私は思うし、そしてそのことは物凄く重要で、見過ごしたり、目を背けてはいけないことだと考えています。
もっとはっきり言います。
「“他人の心に興味を持つ” のは、そもそも他人の心を読むのが(どちらかと言うと)苦手な奴だ」「人の気持ちが(自然に)分からなかったから、人間の心理を研究しようなんて思い立つ」。
逆方向から、「本当に感受性や共感能力が高い人は、他者をサンプルとして扱うような視点で物事を考えることがストレスになって、”研究的な思考” に耐えられない」だろうことも考えられます。
外科医には向いていないという話です。反対に、「ある種の冷淡さ」が求められているだろう。
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まぁ出来たら、まだ怒らないで欲しい。
以上のことが悪い事ばかりじゃないのは、私が証明し得る所です。
むしろ「研究職ってそういう人こそなるべき」という一面があるはずです。
以前の↑の記事で言及した通り、もしも私が、皆さんにとって有益な音楽理論の記事を提供できているとするならば、恐らくそれは「私が音楽理論を愛していないから・無感情に接しているから」であって、これって言うまでも無く「音楽理論界隈(何それ)への不適応」です。
大雑把に言うと「俺、バカだからよくわかんねぇけどよ」の構図です。
当事者として居る人間「じゃない」人間の方が、核心的な視点に立てたり、時に本質を見通していたりということは、物語のテンプレになる程度には往々にしてあるものです。「浸かり過ぎ」は結構、良くないことなんです。
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いらすとや 様より。
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それと少し違うが似た感じで、「人心について、健常者を遥かに超える量の知識と経験と技能を身に着けてしまった自閉スペクトラム症・該当者※」なんてことも起こり得ます。それはその才能を活かすべきです(もしもその裏で、当人の膨大な苦労が軽視されてしまっているなら、その「結果しか見ない」なんてのは悲しいことだが)
※ここではADをイメージしている。俗に悪口で言う「アスペ」。
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特定の発達障がい =(わざとか無意識か)日本国が子供たちに要求している “学業” の能力。
正確には「日本の現状の学業成績評価は、特定の発達障がいの特性に有利にできている」。
発達障がいの特性により、恐らく日本の教育が想定しきれていない「別解」に辿り着いてしまう。
何なら彼らが大人になって教師になる。
「頭が良い」けど「空気が読めない」みたいなのは、コランダムという “同一の鉱物” を見て、
「ルビー」だとか「サファイア」だとか、人間的な感性で区別して認識しているだけの話。
その二つの側面(に見えるモノ)、”同じ” なんよ。
だからね、「一般常識」という科目に長けている人物は、学者だったり専門家だったりの道を「選ばない」からそもそも
— 飛岳(Hidaka) (@Hidaka_Sui) August 1, 2022
彼らは別に一般人の完全上位互換ではないのよ
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「日本人よりも日本語文法や日本語スラングに詳しい外国人」も、構図は似ていますね。要は日本語ネイティブは「気づいたときには “自然に” 日本語を使えすぎていた」人々であるため、かえって理解の解像度が浅いのです。
「異文化として相対化しなければならない」という、その壁を乗り越えている非・日本語ネイティブの方が、逆に理解の解像度が高かったり、また「あえて日本語を学びたい」というモチベーションがあることから、精鋭が集まっているという一面もあるでしょうね。当たり前だが全員じゃないよ。
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そして私は思うのですが、以前も少し話したヴィトゲンシュタインの言語ゲーム(独:Sprachspiel)の話。
好きな話ではあるんですけど、一方で私は思っています。
「言語ゲーム」の概念、ヴィトゲンシュタインを勉強するまでもなく、結構な数の人が、子供の頃に自分で(完全に)悟ってません…?
無論、私がヴィトゲンシュタインの主張を全て理解しているとも、その前後・周辺の哲学者の話まで全て目を通しているとも言いません(むしろ私は哲学のトピックを避けて生きているので、そこらの高校生より知らない)。
けれどもその辺の記事を読む限りでは、言語ゲーム概念って考えれば考えるほど「当たり前だよなぁ!?」とばかり思っています。むしろそれに自力で気づけないような人間は、いま社会不適合者になっているだろうと。
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西欧芸術音楽の作曲家たちが、いかに複雑緻密な音楽を設計するかで鎬を削り合っていた所に、「(改めて)設計を放棄した音楽」を提示したことで、ジョン・ケージは西欧音楽史に名を連ねていますが、そこでいうジョン・ケージや『4:33』という存在は、どう考えても「記念碑」的にピックアップされているだけの存在です。
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そして実際、無音のみの音楽を本当にコンサートで演る奴は中々いない逸材だぜ。
「偶然性の音楽」は、その当時もそれ以前も、ほぼ確実に市井に当たり前に存在していたはずです。歴史から消えた、もっとアマチュアな作曲家たちの中にも、作曲ド素人の、ありふれた子供たちの中にもです。
それを「実は当たり前なんかじゃないんだよ」と指摘するのが、西欧にて発達した「アカデミックな芸術」の役割の一つだと、私は思います。そしてその役割は、社会に於いては有意義なものだとは思います。
いつだってヒトは「当たり前」を忘れ、そして「当たり前」に囚われ続ける、不器用な生物です。
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「ラファエロのように描くには4年かかったが、子供のような絵を描くのには一生涯かかった。」―― パブロ=ピカソ
挿絵は いらすとや 様より。
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しかしそれとこれとは話が違うのが、単純に「学問界隈」が特定の一般の界隈よりも遅れている・あるいは別の学問分野に対して非常に後れを取っている、というような状況は、早急に指摘されてさっさと自覚すべきだと思うのです。
例えばそれこそ発達障がいの理解。最近「AIが発達障がいの人の思考回路の翻訳に役立つ可能性が…」みたいなニュースを見た気がしますが、多分ですけどそれ、そのなんかのAIの代わりに私が翻訳に間に入る方が、圧倒的に手っ取り早く理解が進むでしょうね。
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「発達障がいについて理解を深める必要がある」のは、健常者である人である場合が多いだろう。
「仮に色々深く分かってても、伝えるのに難がある」のがADとかなんで、
普通は非・当事者側から解明してやらないといけない構図になる。「普通は」。
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もっと分かり易いテーマの例を挙げれば、「お金を儲ける」という目的に絞る場合、参考にすべきは経済学者・経営学者・現社長のどれでしょうか。
普通に考えたら、現社長なんです。「社長兼学者」がもしも居たら少し悩む所かもしれませんが、多分 私なら参考にするのは純・社長職かなと思います。そう考える理由は、この記事です。
勿論、私は経済学や経営学の知識などありません。舐め腐ったことを言っているかもしれないですが、別に怖くないんで。予算の申請に喘いでいないで、自力で研究費すべて稼いでいる研究者が居たならば、最も参考にしたいです。
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いらすとや 様より。
まぁ「経済学や経営学の目的は、金儲けなんかじゃないから」というのは、その通りだと思う。
でも「だからと言って」よ? 「完全なる無関係」だと思うべきと、一般人に説いて回る?
「単なる金持ちには務まらない研究」を実践できているという自信は、どこから来るもの?
音楽理論の話は、理論家じゃなくて作曲家……じゃなくて私に訊くのが吉です。仕事になるほど作曲できる人って、肝心な部分の言語化のスキル低めだから。マジで悪い事は言わねえ。悪いコト言ってるけど。
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それで思っていることですが、音楽も芸術音楽界隈は学問ぶっていますが、多分(音感はすごく良いんだけど)めちゃくちゃバカで、他の学問分野に陰で笑われていないだろうか…ということです。
想像でしかありませんけど、多分ノイマンのレベルのガチ天才って、音楽の世界の地平なんてまぁまぁ一瞬で見渡せてしまって、何も面白味や奥深さを感じないんじゃないかと思っています。
自然科学の他分野で功績を残したノイマンのエピソードに「ピアノやチェロを習わせたが、興味を示さなかった」というのがありますが、ガチつまらなくて「歯牙にもかけなかった」可能性が微レ存で恐ろしい。
音感の種類&発達レベルは「音楽の面白さの受容」の仕方に直に影響する。
悪いこと言わんから、音楽の学者は早く他の自然科学への憧憬を捨てれ。
何も語らないか、語るのなら堂々と非科学的の道をつっ走れ。呪術化しろ。何せ芸術なんだから。
勿論、音楽にまつわることの中でも、科学的手法でうまくいくタイプのことについては、そうしたら良いね。全ては適材適所よ。
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「科学的手法(scientific method)」というのは、自然科学の黎明・発展期に於いて大成功を収めた手法と言えます。とりわけ自然科学との相性が良く、そして自然科学の発展は、人類にとって物凄く大きな意味を持つものであった。
だからって「あらゆる物事が科学的手法でうまくいく」は、別に導かれない結論なんですよ。「科学的手法を取れば、科学的手法で得られる類の結果が得られる(得られ易い)」。これ以上でも以下でもありません。
慎重に「正しいこと」だけを積み重ねていったら「正しいロード」が組みあがる、というのが科学的手法です。欠点は、(人間が完璧じゃないから)そんなに理想的に「正しい」だけを選別可能だという想定は、非現実的だという点です。
その辺り「潔癖すぎる」のが、強いて言えば、悪い癖です。
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それこそヴィトゲンシュタインの諫言か。
仮定や議論範囲の限定を駆使すれば、実践不可能ではないと思うが、
「多少いい加減で間違ってても、毎日1000歩 歩く奴」が居るというのに、うまいやり方か?
恋人を作るのに最も効果的な心掛けは「フラれても引きずらずに次へ」でしかない。
一回の告白に向けて10年も自分磨きしちゃう奴は、時間(と若さ)の使い方がおかしい。
哲学それ自体は秀逸かもしれない。そして時間をかけて丁寧に見直していけば、少しずつでも「正しいロード」は長く・丈夫になっていくだろう。
でも、これを「手法として選択すること」それ・その選択自体によって、最善を保証されるものでは “別に” ない。そんな万能チート手段は無い。
運用者の能力値と頑張り次第・の問題が消滅するわけじゃないし、科学が恐らく限りなく理想的に運用している所の「正しいロード」の建設増築は、ほぼ人類全体をかけたプロジェクトであって、非常にコストがかかる。
あと科学的手法が科学に合っていたのは、科学の対象と、科学特有の目的に由来するものだと言えるでしょう。「科学的」言うてるしね?
科学の対象は永久不変(恐らく)の自然律(natural laws)で、科学の目的(基本欲求/行動原理)は、「正しいロード」の建設そのものです。
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ならば、「お笑い」に科学的手法は向いているでしょうか。
慎重に「面白いこと」だけを積み重ねていったら、絶対的「面白いロード」が組みあがる?無理です。お笑いには「興醒め」「白ける」という要素が存在します。「飽きる」という要素も存在します。
これらは基本的には、自然科学とその目的には存在していない要素です。
四色定理の証明法が「美しくない」みたいな感性は実在していますが、
“だからと言って” あのコンピュータ任せの証明法が「認められない」なんてことはありませんでした。
お笑いという分野にとって、「絶対的 “面白いロード” の蓄積」などという発想が「甘え」と見なされるであろうことはお判りでしょうか。
勿論「鉄板ネタ」というサムシングはありますが、お笑いというパフォーマンスに求められているもの・真の専門性は、その「当意即妙さ」です。
つまり「何のネタをやるか」よりも「そのネタをいつ・どのタイミングで出すか」に、専門性が存在しています。
鉄板ネタだって、“上手に出す” のがプロでしょう。
記念碑として相応しいほどに。
「世界一笑われたギャグ」を統計できたとして、じゃあそれを今からやります、で “確実に” 笑いが取れるでしょうか?
ここで “確実に” に期待が出来ないように思える以上、お笑いの目的って科学と違って「面白いロード」の蓄積じゃないんです。
お笑いの目的は「今、目の前にいる “その” 人たちを笑わせること」です。
「現場は生き物」なんで、ストックネタは必ずしも役に立たないんですよ。
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でも「そんなことを理屈で考えてる人間の『おもてなし』なんて、素直に受ける気にならない」
のだけは、確かなんですよね。その非科学的な繊細さが、「おもてなし」なんですよね。
データキャラって常にかませ役ですよね。
それが筋書き的に「しっくり来る」のって、我々“普通人” の中に在る、「”何かの傾向” に対する暗黙の知識」の表れのはずです。
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この意味で、よく考えなくても「お笑い」と「芸術」は性質が近いです。
イラストAIや作曲AI出てますけど、一番はっきりしているのは「興醒め」だということです。むしろそれ以外の理屈こねて批判しない方が良いですよ。向こうはもう結論ありきだから、法律とグルでやってきますから。
どうあがいたってもう「正当性」は向こうの味方です。
「面白い人々」が何か「面白いこと」やると、「おもんない奴ら」が一挙に押し寄せて来て、界隈ごと陳腐化する。専門性は普遍化する。それって「悪いことばかり」でもないけど、元にも戻らない。人類史の常です。
「面白いこと」によってお金が動き、経済の一端を担うというのに。
絵や音楽の「専門性」が解体されたら、それらをダシにした経済回しはもう段々 使えなくなる一方。本当に分かってやってんの?AI研究者ちゃんたち。
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それに甘えてかつてない尋常さで環境ダメにして、さらなる発明が無いと…ってなるのが人類。
さて、「この現実世界の科学の進展に最終地点など無く、無限に続く」という保証はあるのか?
それは人類の努力次第の問題ではなく、「世界の造り(物理法則)」の方の問題ではないのか?
限界点は、この世の果ては、無いのか?本当に?
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色々な方向に脱線しながら話してきましたが、この記事の趣旨は
「『専門家』と呼ばれている人々が、いつでも一番 参考になることを教えてくれるかも、そもそも本当に一番 専門的かすらも、一概には分からない」
ということです。
そしてそんなつもりも別になかったけど、この記事を有意義的にまとめるならば、
「我々は、専門家(※ここでは極めて広義です)になろうと励むことも、なるまいと意図することもできる。選択できる。」
「それを踏まえて、“専門家となっていく人々” の性質を・傾向を、正しく理解しておくことに損はない。というか『専門家という分業制』を利用するつもりならば、必須のこと。」
難しいこと言ってないんです。
「相手をよく理解して付き合っていこう」ですよ。当たり前のことです。
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ちなみに今回のこの記事を書こうと思ったきっかけは、私の以前のジャズについての記事です。
多分、実際にジャズ界隈に身を置いている人からすると、「そんなの発見でも何でもない、我々の中では常識」というような内容が大半だということもあり得るだろう…と思ったんです。
その懸念と恥の自覚がある分だけ、私のスタンスはマシであると思いたいこの頃です。
私は本当に、ジャズをやっている人全員より低レベルな音楽家であると、心の底から思っていますよ。以前から言っています。
私は、即興演奏をやる全ての人間よりも格の低い作曲家です。一生です。
それでも私は、即興演奏をやりません。どんなに悔しくても私の特性上、私に戦えるステージではない。
「パラリンピック」だと言われたら、まぁ慰めだと受け取っておきますよ。