おさな子

その昔、ベイマックスを幼子と映画館に観に行った。

4才女子と2才男子と、我が父の4人。
4才は、アナと雪の女王がお気に入りだったので、ベイマックスも楽しめるかなと思った私の計画で、子どもたちが行きたがったわけでは無い、
2才男子は赤ちゃんのころから、雪で作ったかまくらの中に入れても泣き出すくらいの子だったので、話によっては、途中退場を覚悟しての、映画館だった。

父(子どもたちにとっての祖父)を連れて行ったのは、そうなった時に、子ども1人ずつに大人が付いていられるようにとのためだったが、正解だった。思ったよりも早く、2才は「ママ、出よう」と耳打ちした。

タダシが死ぬ辺りだったかと思う。たぶん全体の1/3にも達していなかったかもしれないくらい序盤。

映画館の外に出ることを我が父に小声で告げ、可愛い2才と共に外に出て、4才たちの映画鑑賞終了を待つ。

帰りは疲れたのでタクシーで。ほんの10分ほどだが、4才に映画のお話して、と頼むと、すらすらと粗く筋を追って語ってくれた。

4才にしては見事な語りだった。

もちろんいくら子ども向けアニメでも、それなりに伏線を張りエンターテイメントの様相で、ましてやアナと雪の女王のヒットで飛ぶ鳥を落とす勢いのディズニースタジオ製作だし、上質なアニメだと想像していたので、おそらく全体像は伝えきれていなかった。(のちに、DVDなどでじっくり視聴し、私の大のお気に入りにまでなっている)

でも、その時の4才が訥々と語ったラストに、私はタクシーの中で号泣したのは本当だ。

あのね、ベイマックスが、ヒロの手を離して、ヒロは助かったの

みたいな説明だったと思う。

見事だったように思う。

感想を告げない。
あくまで、ストーリーの事実だけを追う。
ましてや、自分語りをすることもない。(大人はそれに比してなんと不完全な語りをすることか!)
尺の取り方も見事だったように思う。

4才の記憶力の良さと、言葉の豊富さ、逆説的だけれど語彙の少なさとが神技的に絡まり合い、ファインプレイを見せた瞬間だった。

蛇足だけど、現在その4才のその能力は消え失せている。

号泣している私をみて、4才は、おそらく「なんでママは泣いてるのかな?」くらい感じていただろう。

4才の彼女は、ベイマックスの気持ちが分かっていたのか否かは、私には分からない。

私が泣いたのは、ベイマックスの犠牲精神なのだが、実はあまりそれは好みではなくて、

昔から戦闘シーンで良くある「(味方の若い人、おそらく主人公に向かって)お前は行け!ここは俺が食い止める!(と言って死んで行く)」とかが、ちょっと好みではなくて、

では何が私を泣かせたかと言うと、

そのベイマックスは、人が作った無生物なはずなのに、人と心を通わせる風に見え、これはちょっと言い方に気をつけなければならないが、ある意味、自閉傾向にある、他人の心情に不敏感な人との情の交わし合いに似ているところ。この「情」は、果たしてどう解釈すべきなのだろうか、というところに、えも言われぬ感情が湧き上がり、悶えるような官能を呼び起こす。

そんな風に私は泣いていたのだが、4才は、その犠牲精神が人を泣かせるということすら、ピンと来ていなかったのではないかと思う。

映画一つとっても、見方が違う経験の一つだった。
大人が何かを見聞きして感じることは、「深く読む」と言ってしまうことが多いが、それはそこに到達する前に様々な経験を積むから生まれるのは間違いない。果たして子どもは、経験は圧倒的に少ないから「表層的」「未熟」「浅い」などと言われてしまうことが多い。

それも一つの見方だと思うし、私もそう思う。

でもね

ヒロを助けるために自分の手を切り離してエンジンにし、自分は暗黒の地に残る(一生出られない)という決断を、感動する私と、それがそもそもどういう意味を成すのかから新しく考えていく幼子を、「表層的」「浅い」と言ってしまうのは、それこそ、浅くはないだろうか?

禅問答のようだけれど、物事には答えはないということも、また、気をつけて行かねばならない。

そんなことを、先日、ベイマックスを観ていた子どもたちと共に語り合った。

そういえば、あの時期の、おさな子の発話は、非常にユニークなことが多かった。
薄汚れた思想で薄汚れた人間に成り下がった私のような心では、思いも及ばないことが、毎日起こっていた。

そして、ワンオペだった私にはそんな時期の幼子にゆっくりと向き合う時間と心の余裕はとても持ちえなかった。

ごめんよ、子どもたち。

とても埋め合わせはできないけれど、今からでも遅くない。今を充実させていこう。

また、一から、子育てしたいなぁ。

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