ガラスの仮面
というコミックがあった。
北島マヤという人物が演技のうまさで観衆を魅了する物語。(読んでないけど)
彼女が演技すると、観客は、見えない物が見えるらしい。(読んでないけど)
王女の演技をすれば、身にまとうものからお城までが見え(実際は稽古着や練習場)
寒いと言えば暖房の効いた観客席が寒くなった気がして
美味しくないものを美味しそうに見せたり
とにかく、物理的に無いものをそこに産み出す力、それが彼女の力。錬金術師のようだ。
すごいな、そんな人の舞台を見てみたい。
悲しいかな、私は無類の舞台好きなれど、まだその感覚を芯から味わったことがない。本多劇場の舞台は本多劇場の舞台にしか見えないし、ボロ服を纏った人はボロ服を着ている人にしか見えない。(小泉進次郎のようだ)
私に想像力が著しく欠けているか、演技側に北島マヤほどの力がないか、どちらかだろう。
私に関しては前者の傾向がやや強めなのは白状しよう。
さらに言えば、もう一つ斜めから、常に感じていることがある。
それは
北島マヤが演技上手なのは確かだろうが、
どんなに優れた演者がいたとしても、観客が無能なら何も響かないものだ
ということ。
その「無能」とは、前述した通りの、ただ、いたずらに想像力が貧困であるだけの狭量な話ではなく
北島マヤの演技に心を掴まれるような人は、元々芸術的素養があり、想像力や好奇心が豊かで、知識や海外旅行など様々な経験も豊富、尚且つ、舞台で心をグッと掴まれたいという願望を持てるだけの、金銭的、時間的余裕に恵まれた人である、という事実は否めまい、ということ。
例えば
南仏の陽光を浴びた人
オーロラを見た人
アマゾンで魚釣りをした人
馬に乗った人
ダイビングをした人
キリマンジャロに登った人
経験をしていないよりは、していると、より、物事を身近に引き寄せやすい。つまり、共感できるシーンが増える。たくさんの経験はお金がいる。
しかも、若年時に。
そして、明日に連続した希望を持てる、好奇心を蓄え実行する確実な暮らし、生活水準を備え持つ人。
それはある意味、できる人とそうで無い人を、明確に、本人の意思とは無関係に線引きする。
残酷である。
その人の資質とは限らないから。
また、経済的余裕は、好奇心、心の安定にも資するから、「舞台を観て感動したい」という潜在意識を持てる人はそれだけである意味特権階級とも言える。
借金返済に追われていては、そんな余裕がとてもない。
ある一定の知識レベルを一般に求めるためには、経済的な力は無縁では無い。
ガラスの仮面というコミックが成功したのは、間違いなく1970年代の「一億総中流」が土台としてあってこそ。そうでなければ、ここまで成功しなかったのでは?そんなことをふと思う。
バラエティ番組やYouTubeなどをただ虚な目で見続ける人たち自身を責めることはもちろんしない。いろいろな理由がある。
一般大衆という目に見えないものが、どんなものである時に芸術が興隆するかと言えば、経済力、しかも、幅広い経済力を背景にすることが不可欠である。
社会問題の中でも比較的解決しやすいのに、
成熟した理知的な判断ができない大衆の前では、北島マヤとて無力である
舞台芸術のためには、社会的安定、しかもなるべく広く、が必要である。
かくも悲しき運命を内包している舞台芸術というものに、これからも目が離せないが
まぁ書籍よりはマシかな。スポンサーがいればなんとかなるか。
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