男女の友情

遥か昔。
「When Sarry met Harry」という映画があった。
夢見るティーンエイジの私は、この映画の感想を日記に書いた。

「男女の友情があるかないかを図るのは、セックスだけなのか」

と、一言。

そして何十年も経った今、その映画の内容も、出演者すら記憶がないが、その一言だけは奇妙なことに覚えているし、たぶん、そんな程度の映画だった。

今、その映画を観たとしても(絶対に観ないけれど)おそらく同じことを呟くだろう。昔の自分は現在と全く変わっていないことに笑えるし(進歩ないと言う言い方もできるけれど)、我ながら結構、いいセン行ってるな、と当時の自分を褒めたい。

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人間は変わる。行く川の流れは絶えずして、しかし水量も河川幅も行き先も、変わって行くものだ。私もきっと様変わりしただろう。

20代前半くらいまでは、畏れずに言い切っていたことが、次第に言えなくなって行く。今に至っては、いつもモゴモゴしている。物事を一言でまとめてしまう怖さ、みたいなものを体感しているからか。私自身、考えもかなり変わってきたので、何かに言及する時にはかなり気をつけている。

ただ、私の中にずっと、変わらない核がある。

それは、human rights と、dignity。これは、心の中にずっとある。

かなりの割合で、私の場合は、ここに行き着く。「全て帰着」と言い切っても良いくらいだが、前述通り、自分の知識の限界を知っている私は、人間世界の原則に基づいて、断言はしない。

でも、世の中の物事をジャッジする時、何か物事を思考する際の指針を、歩む道の判断を、最終的には、ここに落とし込んで考えてきた気がする。物事をここに照らしてみると、絡まり合いもつれ合い解けない難問が、意外にシンプルに見えてくるものだ。

プラトン全集や四書五経だの思想家の著作や、マキャベッリの君主論やアダムスミスの国富だの哲学者の著作も、シェイクスピアやチョーサーのような詩も、最近では吉野源三郎「君たちはどう生きるか」みたいな威丈高な本も(笑)、human rights と dignityに照らし合わせると、いろいろ考えることが出てくる。

閑話休題。

世の中の社会意識。今、エネルギー、食料、環境などの諸問題や性の多様性、軍事や貧困など様々議論が為されている物事の中で、もっとも身近で、もっとも簡単で、そして難しい社会の意識「マチスモ」は、その私の核とは明確に相入れない。いや、正反対、と言っても良い。
ここがアウトだと、どんなに社会的に素晴らしいことでも、私の中では、比較的早くシャッターが降りる。いや、降ろしてはいけないので、戦闘態勢に入る、と言い換えるべきか。

これは一つの現象と言っても良いくらい、例に枚挙にいとまがないのだけれど、男性、しかも社会的に成功したとみられる男性の中には、黒人などの人種差別や、政治への眼差しはごくまともなのに、いきなり女性が絡む問題になるや否や、途端に切れ味が鈍くなる、そういう現象にぜひ、言葉を付けたいと思っている。

大昔の超B級映画に感じた「男女の友情はあり得るか」という問いかけに対し、

女性差別に遭ったことのない、そして未来永劫合うことがない属性の人が、どれだけ想像力を駆使して被差別側に歩み寄れるか。私が答えるならば、ひたすらここに依っている。

※これは、トランス女性(MtoFも)の方には本当に申し訳ないが、「見た目が女性であるというだけの、如何ともし難い運命により、不条理な出来事に会ったことがある人」の苦しさと、トランスの苦しみとは、分けて考えて欲しいと常々思っている。

とにかく、女性である私に取り、男性を友だちと思えるかは、

マチスモであるかないか

そこが分水嶺だ。

若い時には、人権擁護派だったり、レイシストを批判したり、弱者に寄り添う姿勢を見せたり、フェミニストを自称したりする人々が、

歳を重ね、それらを過去のパフォーマンスとして新しい顔を見せる現象(ああ、言葉がほしい)

その現象が現れない人もいる。現れる人が全て男性ということでもないのは付け加えるとして

現れる人は、
①生来マチスモを身につけていたが、若い時分には仮面を被っていた
②若い頃は無かったマチスモが、歳を重ねる毎に身について来た

のどちらかかと思う。

権力者はかなりの割合で高齢男性であり、若い時にはそれに歯向かう体で①②両方存在するが、①は、注視すれば、化けの皮は剥がれるはず。この類とは、元来、友人にはならないので問題にはならない。

問題なのは、②だ。
社会的地位が高くなるほど、気づかぬうちに、若い時に自分が忌み嫌っていたその「権力者」になり変わってしまうのが②である。

微かな望みをかけて、若いうちに友情を育み、友情を感じた人が徐々に変化して行く様を見届けるのは、なかなか骨も心も折れるものだ。
ある意味、若い時には本当に人権擁護派だったのだろう、それが、社会構造の中で自らの地位が上がるほど、周りも変化して来て、媚びへつらわれ、ご意見板としての活動も増え、次第に「自分は偉いのだ」というオーラを纏うようになる。

そうなると、やはりマチスモとどうしたって親和性を帯びて来る。

マチスモに冒された人が良く取りやすい言動。ほんの一例。

他人の意見を聞かなくなる
新しいものを排除するようになる
自分の意見が唯一正しいと思い込むようになる
他人に自分の意見を強要するようになる
違う意見を、「愚か」で一蹴するようになる
自分の話を聞いてもらいたがりで、人の話は一切聞かなくなる
周りを「自分すごい」と言って持ち上げてくれる人だけで固めようとするようになる

少しずつ少しずつ、川が流れを作り出さず、停滞し、澱んでくるように、思考が固まって行く。

社会が、その人を作る。
私は生涯大成しないし、周りにチヤホヤされることもないから、勘違いする可能性は遥かに低い。が、一応、自分に言い聞かせては、いる。社会の中の立ち位置に、自分のアイデンティティを見出さないように、と。
いつまでも、新しいことにワクワクしたいし、頭の中身はフレッシュでいたい。

人間は、権力の甘い蜜には抗えないものだから。

人は変わる。友情も変化する。それは致し方ないことで、それでもカッコつきの友だちでいる。

しかし、弱者に真っ直ぐ対峙していた人が、強権的に変化して行く様を見るのは、なんと堪えることか。

私も一緒に強権的になり、寄り添っていけば友情も続くのだが、それは、「成長」ではなく「人間として退化」だからなぁ…

青い、とか、お花畑、とか、社会はそんなに綺麗事じゃねぇよ、とか、良く言われるけど、まぁたかが私自身の友情如きの話だから、いいんだ。

ちなみに、この
「社会は腹黒くなければ生き残って行かれない」
と、
「ペストと戦うには誠実さが最大の方法」

みたいなこと(雑!)を書いたカミュと。

政治の世界で不誠実であることと清濁併せ持つことを、同等のことと勘違いしている輩が多すぎる。前述の二つは充分両立することについては、負けずに言い続けたい。お花畑はどちらなのか、と。

++++++

仲の良い男性が次第に変化して行く事柄に何度も対面して来て「ブルータスおまえもか」と心挫ける経験を繰り返すと、その恐怖の前では、セックスごときで友情がどうとか、心底どうでもいいことに見えて来る。まぁ、マチスモとのセックスはそれはそれで地獄だけれど。

という、心底どうでも良いことをダラダラ考えるきっかけが、日々私の身に降ってくる。

ある男性は、どうみても前述のマチスモ例そのものに成り下がってしまっているのに、あまつさえ「言い切ったり思い込んだりする時点で変化や成長を停止してしまう」などとちょっと偉そうに高説を垂れる。私は目を白黒させてそれを聞いている。Senti chi parla!

男女の友情。

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