意地悪の連鎖
1945年のお話。
占領者である米兵から、家畜に餌を撒くように、飴やチョコレートを撒かれ、あまりの空腹にそれに群がる日本の戦災孤児たちを見て、「いやだった」という言い方をされていた切明千枝子さんのお話を前に聞いた。
80年近く前の話。
別に日本下げでもなく、自虐でもなく、もしも世界を強弱で語るならば、見た目が小さな黄色人種というのは、被差別者であり、弱者側であるのは、致し方ない事実として常にあった。白洲正子の学生時代の写真をみたが、どんなに財力に守られていてもアメリカの堂々たる体躯の人たちの中では、ただの小さな存在に見えた。
財力もない普通の日本人は、推してしるべし。
私はこの理論(黄色人種は被差別者)に抗いたい気持ちでいっぱいだし、これから変わっていくことを望むけれど、これは力の問題で、人間は長い間それに従って社会を構築してきたから、変わるにも長い時間が必要だろう。イスラムとキリスト教の平行線を思えば、よくここまで来たな、という感じである。
力とは、パワー、ケンカが強い、肉体的に恵まれている、など、単純な筋肉量の問題にも思える。体躯に恵まれた方から並べ、
白人男性>白人女性>アジア人男性>アジア人女性
というような感じ。インターセクショナリティもあり、なかなか単純化できないが、ここで、黒人の、体躯に恵まれた男性が、必ずしもヒエラルキーの頂点に立たないのが、興味深いところだ。筋肉量とは、純粋に個人の体だけを指すのではないことを、付け加える。
あらゆる差別は、このマチズモ的な、筋肉量の問題だと思うと溜飲が下がる。男女差別もとどのつまりは同根で、男女差別をなくそう!というといろいろと反対勢力が日本内でも湧いて出るが、結局人種差別だけなくして男女差別だけそのまま、ということにはならないんである。なんなら、大国の強権、筋肉量の多い国家、ロシアやアメリカ、中国の横暴も、この論理である。
社会構造的筋肉量、とでも言おうか。
だからさ、全部、ひっくるめて止めよう?
止めるというか、新しい価値観を作ろう?
マチズモから、自由になろう?
と、世界に向かって申しているのよね。
また話が逸れた。
貧しい時の日本で、家畜に餌を撒かれるが如くチョコレートを与えられる日本の子どもたちの姿を、同じ国の人として、嫌だな、と思った切明さんの感情には共感する。そこには、dignityがあるのだ。
この感情は、1945年には結構多くの人が共感したはずだが、広く浸透しなかったのはなぜだろう。
さて。私には、到底理解できないことがある。
内戦地域などに、その地の人のニーズに合わない古着(つまり、ゴミ)を、送る気持ち
被災地に折り鶴を送る気持ち
いずれも、dignityが放っておかれている行為だ。
しかも、悪気なく。善意で。
私には、この、善意が何より恐ろしい。
dignityを基本として捉えれば、わかるはずなのに。被災者は、同じ人間である。自分だったら、どう思うかは、少し想像すれば分かるはずだ。
百歩譲って、自分と先方の立場が著しく異なる場合は、まだ想像力の欠如で済まされるが、
もっと深刻なのは、自分が嫌だったことを、他人にもする、という行為だ。
嫁としていじめ抜かれて、それをさらに姑になった時に同じように嫁をいじめる。
ブラック校則が嫌だったはずなのに、いざ教師になったら、その非論理的な校則を平気で押し付ける側になる。
これはもう、意地が悪いとしか思えない。
自分で負の連鎖を断ち切れない。
軽視されたdignityをまた新たに軽視するのだ。
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日本が誇る和の精神。と言われる。
無形文化遺産なんて話も聞く。
和の精神は、日本人の特性なのだろうか?
私は、真反対だと思っている。
個人は優れた思いやりのある人が多いと思うし、それは決して人種に関係はない。
日本人の言う「和」は、和やか、優しい、思いやりの深い、という意味ではない。場を乱す人、出る杭などを打ちのめし、抗議する人、人権に反する誤った行為をする権力者に怒る人などを、和に反すると言って爪弾きにして、自分たちは笑顔で過ごすと言うのが、「和」だ。
これは実に恐ろしい。
そう思うと日本人は、どちらかというと、
いや、相対的ではなく、絶対的に、スパイト。
日本に民主主義はかつて存在しなかった、と私が思う所以であるが、和のためなら個を殺す、これは、全体主義、独裁主義の手法に他ならない。上手に権力者に操られながら、一般大衆は常に人権について目を瞑らされて来た。
スパイトの理由を、社会構造が作るものだと、そしてその社会構造は権力者が作って来たと、市民は抗う力を奪われていると、言われ続けているけれど、大きな声にはならない。
この大きな声にならない社会風潮も前述通り一つの巨大な権力である。
一人一人は、人権意識を持った善意の人々なんだと思う。
けれど、集団になると薄まっていく。
人権意識の欠落。
20世紀に伸びた人権という概念にアクセスしそびれて21世紀を迎えてしまった私たち。
被災地に、現地の人が欲しいと思わないものを送る善意の人たち。
この人たちのしていることは、支援ではなく、施しである。
施しというのは、1945年に日本人を家畜扱いした米国兵がしていることだ。哀れな人たちへ、自分が決してその場所に堕ちない立場の人たちが、上から下へ、多少の軽蔑的な視点も含めながら行うのが、施しである。
施しが好きな人、イコールいやらしい人たちをいやと言うほど見て来た。その気持ちをうまく文章にできなかったけれど、私の言いたいことが詰まった本を見つけた。
藤田早苗氏の『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』(集英社新書)
これはかなりすっきりした。
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ブックサンタという動きがある。
全国の施設や家庭で、絵本を買えない人のために、一般の人が書店で自分の贈りたい絵本を購入し、それを事務局でまとめて、適当に発送する仕組みだとのこと。
最初、その片鱗を情報として見た時、嫌な予感がしたし、その時は様子見で、なんて思っていたら、数年経って割と大きな動きになってきて、焦っている。
チャリティーやボランティアで活動されている人たちは本当に素晴らしいけれど、そこにもう少し、humanrightsとdignityを兼ね備えてほしいなと思う。これがない善意は、困っている人たちの足を引っ張る可能性があるのだ。
いや、もっと厳しいことを言えば、良かれと思っていることが、逆効果になる場合もあり得る。ナチスも善意から始まった。
そのブックサンタ。
また持論でしかなく恐縮だけども
すごく耳触りの良い活動に一見思える。
どこにも非の打ち所がない取り組みに思える。
だけど、私はすっきりしない。
なぜか。
ブックサンタとは、読書や本のためにならないと思えるからだ。もちろん、子どもたちのためにも、ならない。
「ならない」と言い切ってしまうのは、誤りかもしれない。ためになることもたくさんある。ナチスも、なにか存在意義はあったのだ。
だけど、長期的視点で見たら、やはり、あまり良くは思えない。
そして、現在の出版状況が悪化の一途を辿っているのも、連綿と続く、この「長期的視点の欠如」が引き起こしていると思うと、やはり簡単に手放しで「良い活動だ」とは言い切れない私がいる。
この、誰が見ても一見、良い取り組みに見えるこのブックサンタに物申すなんて、敵を作る自殺行為でしかないが…だから、友だちができないんだけど、でも言わずにはいられない。
ブックサンタは、絵本を見知らぬ誰かから、贈られるシステムだが、まずここがいけない。
読書の楽しみは、選ぶことから始まる。書店に行き(図書館でも良いが)たくさん並ぶ本の中から、本の洪水に流されそうになりながらも、手持ちのお金の中から買えるものを吟味する。失敗することもある。その「選ぶ楽しみ」がまず欠けている。
読書体験とは、本を選び、読み、保管してまた手に取る、その一連の動作全てひっくるめてだと思っている。
また、この配布先が問題だ。おそらく、書棚が家になく、絵本をあまり身近に感じられない子どもが主な送付先になるようだが、違う。そう言う子こそ、選べる力を身につけないといけない。
見知らぬ誰かからのお勧め本は、家にたっぷり本があり、書店や図書館に、いつでもアクセスできる環境にあり、読書体験の機会には恵まれた、そんな子に「➕α」としてあるならば、最高だ。自分では選ばない本をプレゼントされることで、さらに読書の幅が広がる。
「贈られた本しかない」という環境は、歪で、読書の楽しみの半分を奪われている。そして、それは、長期的な本読みには繋がりにくい。
選ぶ楽しみがないと、「たくさん読む」この行為にも繋がらない。多読は必須だ。
教科書ではないのだ。一冊あればそれで良しではない。
また、「一見、とても良い取り組みに見える」ここが実は一番危ういのではないかと思っている。手軽にできるあしながおじさんであるから、多数の人が簡単に飛びつく。
事の真意を考えることなく。
結局、その場、書店も少し潤い(とはいえ、送料は書店負担だから大きな利益が出るモノではない)、その場、受け取った人は喜ぶ。
でも、永続的ではない。書籍流通がこれだけ衰えて、この後も明るい話題がさしてない業界である。
こういうことではなく、もっと持続的な、未来を育てる計画ができないものだろうか。
また、これだけ大きなことができるなら、
本を子どもたちが買えない状況の方を変えて行く、そちらに力を注いでもらえないだろうかと思う。強いて言えば、子どもの人権を軽視し続けている、政権与党のお歴々に意見出しをしたり、政策に物申したり、そういうこと。子どもの人権を軽視している国会議員のリストは頼まれればすぐにでも提出できる。
まぁ無理か。大きな事業には必ず、おじさん同士の談合があり、業界同士でキックバックを発生させる、そんな仕組みが出来上がっている。本当に子どものことを考えては、やっていないのだと思う。
人権に舵を切らない国は、多様な政策が出ないし、やっていることが全く斬新でない。だから、経済も落ちていく。ブックサンタも、おじさんのアイディアだろう。
※企画者の中に若い女性がいるかもしれないが、そこは問題ではない。要は、大きな事業にするにはおじさんに気に入られなければならないし、おじさんを巻き込まないと事業が発進しない。財界をはじめ、様々な決定権は、おじさんが握っているからだ。
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ブックサンタの問い合わせのところに、一つ、印象深いものがあった。
「絵本と一緒に、メッセージカードを送りたい」
ブックサンタでは、これを禁じているので、答えは「できません」というものだったのだが、この質問が生まれやすいのがブックサンタという仕組みそのものなのだと思い知らされる。自分が良いと思った絵本を誰かに贈る、誰もが見返りを求めたがり、感謝されたがる。これが施しであり、チャリティーの闇である。
たかが、数千円の本を贈って、感謝されたがるとは、正気を疑う行為である。でも、この正気を疑う行為が発生しがちなのが、ブックサンタのシステムではないだろうか。
dignityの欠如である。
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いろんな理由がありつつ、
私がこういう手軽な善意をちょっと難ありと思う、最大の理由は、
支援者さんたちが、救いたい、と思う人しか救わないところかもしれない。
申し訳なさそうにする人、感謝してくれる人。
お礼を言わない人やイケすかない人、生意気な人、派手にしてる人、ネイルを綺麗にしてる人みたいな人は救いたくないのだ。
これは背筋が凍る線引きだ。
それに、こういう民間の事業は、情熱のある人がずっとできれば良いけれど、いつ打ち切りになるかわからない不安定なもの。
本当に、子どもたちに良い本を渡したいならば、今の「子どもたちが本を買えない状況を生み出している仕組み」の方をテコ入れした方が、sustainableだと思うのだ。長い目で見ると、そちらの方が断然コスト安だし、行政の仕組みは、誰かがいなくても持続する。
貴方が手を差し伸べた「その個人」は救われるが、行政や行政司法立法に声を上げなければ、「その個人」と同じ境遇にいる「たくさんの他の人たち」を見殺しにしていることと変わりない。言い方は厳しいけれど、1人救うのか、たくさんを救うのか。
教育費や、社会福祉に予算が立っていないのは、ホームページを見れば一目瞭然だ。なのに、なぜか増えない。予算がないというのは詭弁だ。防衛費には多額の資金がつくことはもとより、中抜き利権、そんなことから行われる多数の打ち上げ花火のようなイベントにうつつを抜かす資金を充てればいい。未来に繋がる方に予算を使わないと、国の先は暗い。
このブックサンタに心を寄せている人たちが何人いるかわからないが、一万人でいいから、教育費や子どもたちへ予算を割くように、国の中枢に働きかければ、少しずつでも変わる。
目の前に倒れている人は救わずにはいられない。それは素晴らしい行為だ。
それと同時に、行政などの仕組みを変える方へ、声を上げる。そうしたら、目の前でない場所で倒れている人も救えるかもしれない。
日本式慈善事業を、変えたい。
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今回のつぶやきの元ネタ
イギリスに本部のあるチャリティーズ・エイド・ファンデーション(CAF)という慈善団体が、「世界寄付指数」という人助けランキングの報告書を毎年公表している。
100カ国以上の人々を対象としたインタビュー調査の項目は、この1カ月の間に、
「見知らぬ人、または助けを必要としている知らない人を助けたか」、
「慈善団体に寄付をしたか」、
「ボランティアをしたか」
の3つだ。
最新の2022年度の総合順位で、トップはインドネシア、2位ケニア、3位はアメリカだった。人助けランキングというと、金銭的に余裕のある先進国が上位に入りやすいと思われるかもしれないが、そうではないようだ。
さて、日本はどのくらいかといえば、なんとビリから2番目の118位。最下位はカンボジアなのだが、実はその前年に日本は114位で世界最下位だった(113位はポルトガル)。
したがって先進国であるG7では、当然のことながらビリだ。
また項目別ランキングでいえば、「人助け」が118位で最下位、「寄付」が103位、「ボランティア」が83位と、人助けと寄付が特に低い。