偉い人
出版社の偉い人が、「これからもいい本をだすことで社会貢献して行きます」
みたいな演説をする。
割とよく見られる風景である。
しかし私はその言説を見聞きするたびに、胸が苦しくなる。理由としては大きく二つ。
まずは、いい本を出すことが社会貢献と言い切る軽率さ、傲慢さ。
本なんて社会貢献しない。本は内省思考の組み立てに必要だし本がある事実が必要なだけで、いい本一冊ずつには社会貢献するような力がないと遥かに下がったところから本作りはせねばならないと思っている。聖書やコーランくらいか?孔子やヒトラー、マルクスエンゲルスですら、そんなに影響の広がりはなかった。何十年経った今はそう思う。
トットちゃんの続編が出たので改めて思うが戦後最大のベストセラーで国内外で800万部とのこと。人権意識ということを根底から問うような(しかもあの時代に)内容だったことを記憶している。これがベストセラーになったのは、もちろんトットちゃんの筆の力に他ならないけれど、小林先生の力も大きかったと思う。民主主義でなかった(今もだけれど)日本に於いてあのリトミックの、この第二次世界大戦以降の民主主義国家の広まりの先鞭をつけるかのような未来性に惹かれたのではなかったか。
しかし刊行されてから40年、あのトモエ学園のような人権を重んじる教育が進んだかと問われると、全く違うと言い切る。
それどころか何十年経とうとも、一学級35人だし校則は相変わらず理由なき束縛であり、教員は定額働かせ放題であり、保育園の先生の配置人数は何十年も変化ないまま。
文科省や厚労省の人たちは人権に直向きに目をつぶったままだ。
それはまぁ私の認知バイアスに伴う極論だとして。
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いい本を出して社会貢献していきたい出版社の偉い人の口から同様に、社会問題についての言及を聞いたことがないというのが、私の胸を苦しめるもう一つの理由。
これだけの問題が噴出する現在、政治信条においての中央を維持するのすら難しい時代にあり、全くのノンポリを決め込むのは愚昧、また言葉は荒いが罪とも言える。
これだけの問題、とは何か。と問われれば、政府の意向のもとに立法され、市民は大手メディアにより知る権利を剥奪され、民主主義の体をなさないこと。そして人権の範囲を狭めてゆく方向に進むこと。
出版界が正常に動くためには社会の大きな力が不可欠である。そこを整えずしていい本なぞ作れようか。
実際に、
いい本を出して行くだけの出版社は、この出版不況に於いていい本を出す余裕も次第になくなってきて、
出るのは
有名人
インフルエンサー
成功した本の焼き直し
SNSでフォロワーの多い人
そんなものばかりで、どこかで見たことある本ばかり。
お金がないとはそういうことだ。思い切った出版ができない。
この先に待っているのは、いや、もう出始めているが、
二階俊博が自分の生い立ちを書いた本、これは官房機密費だか裏金だかを使って5000万部買い取るから出版できるよ
そんな世界だ。
恐ろしい。
編集者は大部分が雇われ会社員。そんな人に誠実さとか社会派とか情熱とかそんなことを期待するのは筋違い。
やはりちゃんとしたサプライチェーンの確保も含めた出版流通が必要だ。
それに、環境問題や素材費高騰への対策をするならばもっと多様な議論があるべきだと思っている。
現在の政府の進めようとしているもの、また進め方には些か不安がある。とにかく日本にまだ生まれていない「民主主義」をまずは作りたい。
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いい本を出すのは出版社の仕事として当たり前。
それだけでは片手落ち。
いい本を出すのと同時に、政治が誤った道、例えば市民の人権を縮小していく方向や、対米追従や、軍備増強などの方向を歩もうとすれば直接指摘して行く行為は
「いい本を出すため」にも必要ではないか。
大きな声を持つ出版界権力者男性の口から、どなたからも政治についての指摘を聞かない。恐ろしいまでに口をつぐんでいる。
ただうつろな未来について話す彼ら。
例えば書店が減って行くということはどういうことなのか。切り捨てるのは誠に新自由主義的で良いとは思うが、例えば一つの書店に5人働いているとしても(実際はそんなものではないと思うが)全国に10万人いた書店員がいなくなるということ。溜池山王のほんたすを全国展開するとして、それにより受ける恩恵は本好きな人何十万を失うデメリットに比べようもない。書店員を人件費のコストととらえると長期的視点では完璧に間違う。このことはまたじっくり書くとして、
偉い人たちが「いい本を実直に作って行く」宣言を聞くたびにはなじらむ。本を読む環境を作らずして何がいい本だと。
しかし、よく考えるとむべなるかな。
なぜ政治に声を上げないかというと、それはおそらく、彼らも同じ穴のムジナであるから。