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自分の未来を考えてみよう 【自分との約束】 前編
〜美容師を目指す若者へ、現役美容師からの応援メッセージ。〜
現役美容師さんから「はたらくこと」「ぼくたちができること」をテーマに、お話を伺いました。
美容師さん一人ひとりから、
美容師として、
社会人として、
一人の人間として、
伝えていくこと、教えてあげたいことをお伝えしていきます。
(ハタラク ビヨウシゴト ノート)
No.2 南田稔さん ~前編~
(salon Vijin newyork 夙川) 兵庫県西宮市
ニューヨークやアトランタ、兵庫県の夙川や奈良県で美容室を経営する南田稔さん
美容師の可能性を信じ、美容に夢を持ち続ける南田さんにお話を伺いました。
はじまり
〜美容師への道〜
ぼくは若い頃から考えていたことがあって。職種を決める時は、
【独立できること、手に職をつけられること、リタイアがないこと】
この3つの条件を満たしてくれるものにしようと考えていたの。
何がいいかなーって考えていた時に偶然、モリハナエ、イッセイミヤケ、KENZO、ああいう人達が初めてパリコレに出たというニュースを見てね。
ぼくはデザイナーにはなれないなと思った。でも、アタマが来ると思った。
髪の毛ならぼくにも扱えるだろうと。その当時は、集団就職なんかで地方から出てきた15〜16歳くらいの子どもたちが髪の毛を切ってたんだよね。
勿論カリスマなんて言葉もない。美容師は当時、言葉は悪いけれど最下層の職業だった。アクセサリーなんて絶対つけちゃいけないの。
でも、これからの時代は変わっていく。
日本人がパリコレに出て、世界の舞台でドレスを作る。その時には一流のヘアスタイルが必要になる。
ぼくはその時21歳だった。
根拠もないけど、ぼくには出来ると思った。技術なんてないけれど、数字には多少強いし中学生には勝てるだろう、と(笑)
そうだ、どうせなら自分の店を持とう!ってね。ほんと安直、安直。
あとは好きこそものの上手なれ、で好きになってしまえばいい。
仕事って、才能よりも努力だよ。
“好き”にさえなれれば自然と努力もできるし、上達していく。
上手に出来れば人に誉められて、誉められると有頂天になって登っていく(笑)だから、仕事って好きなもの、やりたいことをどんどん突き詰めていくもの。
そうすれば、必ずその道で上手くいく。
ぼくはそう信じていた。
そうして、ぼくは美容師になったの。
気付き
〜自分との約束〜
美容師になって1年半、ぼくはその時23歳だった。
サロンの勉強会で「自分の未来を考えてみよう」という議題があったの。
面白いなと思ってね。
通常は、ここまで出来たら次はこうしよう、ってステップアップしていくじゃない?でも、それでどこにたどり着くんだろう?って思ってね。
だからぼくはまず、最初にゴールを決めることにした。
そして、これは真剣に時間をかけて考えようと思った。すごく大事なことだと思ったんだよね。
ぼくの人生は75歳までって考えたの。(当時の男性の平均寿命だったから)
思いっきり働いて、その後遊ぶことを楽しみにしよう!
70歳で完全リタイアして5年間はただただ遊ぶんだ。
だから70歳までに、有形と無形、この2つでゴールを作ろうと思ったの。
有形っていうのは、目にみえるもの。お金だったり車だったり家だったり。人間の欲望だよね。でも、そこに辿り着くには必ず人間性が重要になる。
人と関わって生きていくんだからね。
人としてどうあるべきか、というものが無形のもの。推測の中で70歳から逆算していく。
23歳でたてたプランだから、30までは短いでしょ。30にはこうしていよう、じゃあ25までにはどうなっておくか。目の前にある1年間何をするべきか。そして1年後のゴールにだけ集中する。
そしたら“今日なにをするか”っていうことがはっきりわかる。
この後ぼくはアメリカに行くんだけれど、70歳のゴールを掴むのに必要であるどうかが一番大きな理由になった。
迷いであったり挫折であったり色んなことが起こるけれど、そんな時に自問自答してきた。
「おまえさ、今の現状に不平不満があるけれど、それから逃げるのか?逃げてもいいけど、70のゴールを捨てるんだな?」
って自問自答してきた。そうすると捨てられないの、捨てられるわけがない。
他人との約束よりも、自分との約束を守れた人の方が自信がつくよ。
自信を付けたれれば自分との約束を守る努力をする。我慢もする。
自分で決めた約束だから。
後ろをみない、決めたことだけに邁進する。
今もそうしている。
本当にこれで正しかったのかな?って揺らぐでしょ?
だから「これで正しかったんだ!」って証明するために前をみて進むの。
死ぬときはひとりだから。70歳のゴールは自分との約束だから。
それとね、美容師になってはじめて勤めたサロンのオーナーが「同じ技術を覚えるなら最高の技術を身につけなさい」と教えてくれていたの。
だからスタート時から正確な基本技術を身につけるように努力した。これが大事。
やっぱり基本が本当に大事だから、美容師はアーティストだと思うんだけど、その前に一流の職人として正確な基礎技術をしっかり身につけることを願う。
正確は基本技術を身につけるのに10年はかかるけどこれがその先を決めるから。
渡米
〜挑戦〜
21歳から初めて2年半の、24歳のときぼくは店長になった。
技術はなかった、やっぱり2年半だからね。店長っていうのは、高い技術をスタッフに伝えて、仲間を作ってフォローして…っていう像があったんだけど、技術がないぼくを抜擢したということは、何を求められているんだろうって考えた。
売上だなと、よし!売上をあげてやろう!とぼくは思った。
それと同時に、ぼくには技術も必要だった。だって自分の店を持つんだからね。
どうしようか、東京にでようか?いや、同じゼロから始めるなら自分のことも相手のことも全く知らないそんなところがいいなと思った。
それで、「あ、海外だなぁ」と思うんだけど、当時は1ドル300円くらいだし旅行に行くのもすごく高かったんだ。
それでも何とかヘアショーを見に行って。すると、やっぱり本場は全然違うの。
技術は日本で学べるけれどデザインをつくる感性が全然違う。
土地の感性があるの、感性からデザイン力が身についていくからね。歌舞伎なら日本で習うのが最良だけど、西洋の文化ヘアスタイルを学ぶなら西洋に行かないと…とすごく感じた。
ゆくゆく自分の店を持つ時には、海外との接点も欲しかった。そんな経験がないと対応できなくなるだろうな、という思いもあった。
もう、自分のゴールを達成するには海外に出るしかない!と。それは憧れよりも“必要”だった。
でも、語学なんて全然出来なくて(笑)まぁ行けばなんとかなるだろうと。
本当はねアメリカじゃなかったの、行きたいところは。
ぼくらの時代はヨーロッパの時代だからね。でも残念ながら当時の日本美容業界にはヨーロッパへのコネがなくて。
沢山聞いたんだ「海外に出る方法はないですか?」って本当に色んな人に聞いてたの。
そしたらそのうち「稔さんヴィダルサスーンって知ってる?こんな話があるけど行ってみる?」って声をかけてもらえた。
場所はニューヨーク。
「えぇーニューヨークかぁ」って感じだった(笑)でも日本にいるよりはいっかなぁと思って行くことにした。
それが6月で、7月には面接を受けて8月にはニューヨークで働いていた。