『いぶき』第20号を読む

 今号の「いぶき実験室」に連句のことについて書かせていただいた。その際に失礼や補足したい箇所があり、取り急ぎこのようにツイートした。国光さんには改めてお詫び申し上げたい。

共同代表作品

寒卵妻に無口な日のありぬ 中岡毅雄

紺碧抄(十九)

 「喧嘩で一番強いのは黙ること」と聞いた。夫に不満があったにせよ、他所から持ってきた怒りにせよ、どこか他人事のような書きぶりである。確かに黙られてしまっては介入の仕様がない。何者も寄せつけない雰囲気が黄身を閉じ込める「寒卵」と響き合い、もちろん景として夕飯に出てきた「寒卵」をそれぞれに食しているとも読める。

ともに生きともに薄氷踏みにけり 今井豊

臘扇抄(二十)

 強い魂の結びつきのようなものを感じる。「ともに生き」ることの一部として「ともに薄氷」を「踏」むことが書かれている。英語の表現で"on thin ice"は薄氷の上、つまり危ない立場にいることを指す言葉だが、この二人であれば。

特別作品50句

クラインの壺を這い出る去年今年 清水憲一
倒木に添うて流るる春の水
火星への移住計画目刺し焼く      

「原罪」

 「クラインの壺」はだまし絵として有名な壺の絵だ。「這い出る」のは作中主体か、「去年今年」という時間や感慨といったものか、はたまた得体の知れない何かである可能性さえある。連作の中には「法然」「金子みすゞ」などの人名、「ムー大陸」「ダークマター」などの固有名詞が多く登場する。季語と一緒に詠まれていながら、どの句にも無理がない。選択が的確というかバランスを心得ているというか。掲句にしてみても「クラインの壺」の動かなさを感じるし、ストレスなくフィクションの句として楽しめる。
 かと思えば現実的な句も出てくる。「流るる」とあるから「春の水」が出てくる意外性はあまりないはずなのにやたらと納得してしまう不思議な句だ。「流るる」ものの正体が定まったからだろうか。霊魂も「流るる」と言えそうだし、無意識のうちに「倒木」の周りに「流」れる霊魂的なものを想像しているから「春の水」の裏切りがあるのだろうか。それとも切れを使わずに「倒木」から「春の水」への視点移動が……等々考えているがなぜ惹かれるのか結論は出ない。
 三句目の「目刺し」は「目指し」の誤変換でもあるだろう。あくまで洒落ではあるが。上五中七と季語の響き合いが云々ということは考えずに、「目刺し」のいやらしさがまったくない点に惹かれてこの句を取り上げた。固有名詞の話にも通じるが、50句連作を通して特殊なことをしているのにいやらしさがまったくない。強いて言うなら〈春愁やエントロピーの増大す〉くらいだが、その他は理屈で取り合わせられているわけでもなく(知識を要する場面はあるが)川柳的な意外性のあるところまで飛躍するわけでもなく、本当に句に無理をさせていない。知識を要するという点でいうと、俳句が俳諧に置いてきてしまったものを見せられているようだ。このような書き手がいたとは。

 局所的な構成についても言及したい。「鯉の口」を詠んだ句の五句後に「無口」の句が登場する。去り嫌い的なものも意識してしまうが、この連作においてはむしろリフレインのような効果があると思う。「鯉の口」の次の句は「秋水」と水辺の二句が並び、続く二句は「爽籟」「秋風」と風が詠み込まれている。そのあとに「無口」がくるとまたか」という感がない。二句セットの意識というか、そういったものが働いている。

いぶき三十代・四十代俳人の世界

イマジナリーフレンド消えし姪の冬 伴あずさ

「白昼夢」

大学の心理学の授業で妖精が見える幼い女の子の話が出てきた。詳細に覚えているわけではないが、孤独が彼女に幻覚を見せているといった話だったはずだ。カウンセリングに通ってしばらく、孤独が癒えた彼女は妖精が見えなくなったという。「姪」も孤独が癒えたのだろうが「イマジナリーフレンド」が「消え」てしまった。その寂しさが句から滲み出る。「正常」というのは本人以外のその他大勢が決めたことで、彼女には彼女の世界があったはずだ。

俳句さんぽ(9)

 やはり国光さんと私とで届けたいものと求めているものが正反対に位置しているのだろう。私は深い理解を得て知識が血肉になる瞬間がたまらなく好きだ。骨太文章の信者と言ってもいい。狭くとも深く、という私に対して「俳句さんぽ」は広く浅く展開する。今回の「俳句さんぽ」は九人の俳句論を作品とともに紹介し、そこに第二芸術論を加えて合計で十の俳句論を載せている。見開き一ページでに載せられる情報量では、俳句の初心者を脱し様々な知識を求めている人には適しているかもしれないが、すでに誰がどのような信念を掲げていたかを知っている人や読み物として楽しみたい人にはあまり刺さらないだろう。とはいえ国光さんも国光さんで信念があり、広く浅くという方法を採っているに違いない。届くべき読者に届いていることを願うばかりだ。

句集逍遙 私の本棚から

 毎号「こんな人がいたのか!」と驚くピックアップだ。「私の本棚から」なんて"ゆるめ"なタイトルを付けているのに内容はガチ。「私の本棚」の重さたるや。
 今号は横山蜃縷の『夜滴集』。なんて読むんだ。名前は「シンル」だと思っていたが調べてみると「縷」には「ロウ」という音読みもあるらしい。「シンロウ」と読むのだろうか。「夜滴」は「ヤテキ」「ヨテキ」「ヨルテキ」「ヨシズク」など候補が絞れない。一縷の望みを懸けて検索窓に名前を入れてみると、なんとコトバンクに彼はいた。

横山 蜃楼(ヨコヤマ シンロウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

字が違うじゃないか。どうやら句集にも相当な誤字があるらしく、例えば「筍」と「箏」を間違えていたり「おもひやすけれ」が「おもひやりすれ」になっていたり、しまいには生年月日さえ間違えている。なんだそれ。ネットでは「蜃楼」の方が多くヒットするし句集の方が間違えているのでは。そう思った私は明石城跡にある彼の句碑を見てみることにした。

明石城跡 : 知音の旅人 (doorblog.jp)

わからない。なぜ句碑というものは揃いも揃って行書や草書で彫られているのだろう。とはいえ収穫はあった。「縷」と「楼」は非常に似ている。つまり出典の多い「蜃楼」が正しく、誤字まみれの句集にある「蜃縷」は誤字なのだ!という結論に辿り着いた私に正解が待っていた。

俳句入門の枝折 (浦垣叢書 ; 第1編) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

国立国会図書館。この上なく信用できる出典だ。表紙をめくった二ページ目、書かれていたのは「蜃縷」の文字。brilliant.  そりゃそうだ。今井先生が間違えた方で載せるわけがないのだ。先生のリサーチ不足を疑った自分が恥ずかしい。そして国会図書館に彼の作品があるなら「夜滴集」の読みもわかるに違いない。

夜滴集 : 句集 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

下にスクロールして「詳細を表示」をクリックすると出てきた。
「タイトルよみ ヤテキシュウ : クシュウ」
なんと「ヤテキ」であった。すべての謎が解け今日の熟睡を確信した私の目に飛び込んできた「著者 横山蜃楼 著」という文字。ふざけるな。天下の国立国会図書館様が表記揺れを認めるな。なんで表紙に書いてある名前と登録してある名前で異なっているんだ。どっちなんだ。横山シンロウはどっちなんだ……。

どっちでもいいのかもしれない。かつて中国では音が同じであれば同じ意味の漢字として扱ったと聞く。日本語も「はかる」「じゅうぶん」など漢字の使い分けがされているようでその実みんな同じだろと思ってるものもある。いいじゃないか、「蜃縷」と「蜃楼」が同じ人間を指したって。旁の部分なんか潰して書いちゃえば変わんないって。
 文字やら日本語やらが好きな自覚はあるがここまで盛り上がれるとは。我ながらびっくりする。
 句は〈蚊遣して祇園囃しが口に出る〉〈なきがらに菊をよせおく夜寒かな〉〈草も入れ風通しよきぎすの籠〉の三句に惹かれた。人柄は知れないが句に無理をさせず、難しいことも言わず、難しくすることもせず、身辺詠に徹していると言っていいほど、少なくとも掲句は観念的であったり空想的であったりということはなかった。朴直な良さというか、そういうものが感じられた。

バリアフリー日記

 創刊号からある企画の一つ。大学でユニバーサルデザイン論の授業を受けてから読むと、この企画の貴重さがわかる。ユニバーサルデザインというと、高校生までは障害者への配慮みたいなイメージを持っていたがそうではない。みんなが過ごしやすい環境をデザインすることだ。当然そこには健常者も含まれる。「ちょっと使いづらいな」「ちょっと面倒だな」そういったことを少しずつ改善していく営み。その「面倒だな」という壁が多く存在しているのが障害者と呼ばれる人たちだろう。サポートする道具や環境が追いついていないだけだ。(余談だが障害者は我々にとっての障害でない、として「障がい者」と書く人がいるが私は「障害を抱えている人」という意識で障害者と書いている。障害者という言葉が生まれた当時、障害者に対して、また”名付け親”がどれほど侮蔑の意味を込めて障害者と呼んだか私は知らない)
 今号のバリアフリー日記は名本さんが担当。ホテル予約で車椅子対応のホテルがなかなかなく困ったという話。健常者に割り振られている私は当事者の話を聞かなければ何に困っているか想像もつかない。普通に予約をし、普通に利用していたホテルが車椅子ユーザーには使いづらいものだったとは。健常者も車椅子ユーザーも利用しやすいホテル、またそのデザインの普及が望まれる。
 こういった話が直接俳句と結びつくかは定かではない。強いて挙げるなら句会場選びのときだろうか。車椅子ユーザーが会員にいなくとも、車椅子ユーザーが飛び入り参加できるようにする配慮は今すぐできる。ただ、「今すぐ効果がある」ということを重視しすぎる社会ではないか。「不要不急」の俳句であるからこそ、いつか役に立つかもしれない、しかし間違いなく大事なものを拾っていってもいいのではないか。この企画が一度も休載することなく二十号まで続いてきたことに私は誇りにも似たものを感じるとともに、執筆にあたった方々に敬意を表したい。

一碧集・齋甕集

 大量の句を読むことに不慣れなので一日かけて一碧集、もう一日かけて齋甕集を読んでみたがそれでも飽きてしまうというか、脳がちゃんと読むことを途中でやめてしまう。俳句を面白がれなくなってくるというか。読む力を長時間持続させる訓練が必要か。

春浅き湯気の中より牛の舌 池田誠喜
 「春浅き」が季語であるがここには「息白し」もあるだろう。季重なりを嫌って「息白し」を「湯気」としたか。その「湯気の中」から立ち現れる「牛の舌」。息を呑むような存在感だ。

海に出で海に身罷る勇魚かな 羅賢楼
 「勇魚」は鯨の古名。「海に身罷る」という措辞に惹かれた。「に」は「海という場所に」という解釈も「海によって」という解釈も可能だ。「海」の持つ豊かさや歴史が感じられる。「身罷る」のも実際には雄によって雌が「身罷る」わけだが、血を繋いでいくという意味でここにも歴史がある。「海」の歴史、「勇魚」の歴史、そして「海と勇魚」の歴史。

人日の値引きシールの燃える赤 森尾ようこ
 「人日」と言いつつ、正月の売れ残りが「値引き」されている一月七日を上五に綺麗に収めたいために使われた「人日」だろう。七草粥の風習云々というのはここでは関係ない。ポジティブな意味合いで用いられることが多い「燃える赤」(燃えるような赤)を、正月の「値引き」セールの中に持ってきたことでおかしみが生まれた。

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