石小に爆弾 講堂に大きな穴
石巻市鹿又・田口さん 子どもの目に焼き付く光景
石巻市鹿又の田口正孝さん(86)は、終戦を迎える昭和20年、石巻国民学校(現・石巻小学校)の1年生だった。「講堂に落ちた爆弾が、屋根に大きな穴を開けたんだ」。同年8月10日。中心市街地が空襲にさらされ、米軍の攻撃は子どもたちの学びやにも及んだ。
「幼く細かな記憶はおぼろげだが、目にした光景は鮮明に覚えている」。講堂に爆弾が落ちたその日は、学校から裏町裏(現・立町)にあった自宅に帰る途中だった。
そこで警報を耳にし、とっさに防空頭巾をかぶって、永巌寺近くの側溝へ寝そべるようにして身を隠した。すると、飛行機の爆音とともに「ドーン」と大きな音が聞こえ、翌日学校に行くと、爆撃を受けた講堂を目にしたという。
「昨日までなんてことのなかった学校が、一発の爆弾で変わってしまった。年齢もあり、何がなんだか分からなかったが『大きなことが起きている』というのは明らかだった」。講堂は大破したが、これによる校内での犠牲者はなかったようだ。
戦時下であったためか、学校の勉強についてはほとんど記憶にないという。「遊びの方が得意だったからかも」。永巌寺の裏山に集まっては、毎日のように近所の子どもと遊んで過ごした。「都市部に比べたら石巻はのんびりしていたのかもしれないね」。
一方、町内会では大人たちが竹やり訓練に精を出していた。「かっぽう着を着た主婦たちが、竹やりで敵を突く練習をしていた。バケツリレーも毎回。子どもたちは防空頭巾を持って行動するよう親から言いつけられていた」と記憶をたどった。
そんな日々を過ごしていたが、7月10日、仙台が空襲にさらされた。「夕焼けよりももっと真っ赤な色が西の空一帯を包んだ」。当時、自宅からじっとその様子を見ていた。
仙台が被害に遭ったことで、家族の中で「そろそろ石巻も危険ではないか」と不安が醸成されていった。石巻の中心市街地を狙った空襲は、こうした状況下で起きた。これ以上の危険を回避するため、父親の判断で、姉2人とともに、義姉の実家があった東大崎村(現・大崎市古川)に疎開。終戦は疎開先で迎えた。
田口さんが戦争の記憶を強固にしたのは、戦後しばらく経ってのこと。地域内外の人が集まる銭湯や床屋でさまざまな戦争体験を聞くことで、個人的な記憶と結びつけていった。
一度、米軍爆撃機B―29が飛行しているのを自宅から見たことがあるという。日本軍の戦闘機が攻撃するも一撃も及ばず、爆撃機ははるか雲の上を悠々と飛んでいったという。「今思うと、あの戦争そのものを象徴するような光景だった」と振り返る。
田口さんは「いつも戦争で犠牲になるのは、一般の人たち。無慈悲で、決して許されることではない。国益ばかりを追求するのではなく、多くが楽しんで生きられる社会であってほしい」と世界中で戦禍や紛争が続く、現在に重ね合わせていた。【泉野帆薫】