【八紘一宇】「同じ屋根の下」なのに根がバラバラな僕らかなしき

屋根がなぜ”根”なのか。

検索したらすぐかった。すごい時代だ。

「柱と壁がなかった頃は、屋根は地面に付いていた」

たしかに!
それなら家屋が生えているように見える!


以前、草木の数え方について考えたことがある。

異株同根の形をとる樹木は多い。

多く見える草木が実は地下では繋がっていて「一個体」であったなんてことはよくある。

菌やウイルスなどの微小生物にもなれば、個体数の概念を適用することはナンセンスであると考える人も少なくないだろう。たぶん、あまりに「深い共依存関係」にあるように見え、数量の「変動のスケール幅が大きい」からだ。

そのような小さきもの、多動で、不可解、ゆらぎのあるものを人はよく疎ましく思う。

これは因果関係を司る解像度があまりに微細であるため、日常生活的な大味の言語ではその差異を認識できないためだろう。

餅は餅屋に、量子は陰キャに、といったところか。


同じ屋根の下

われわれ、個々人がもっと小さかったころ、「共同生活」なんて概念は必要なかったに違いない。大道廃れて仁義あり、だ。

今では一人一部屋が当たり前になっており、
賃貸に住む多くの人は屋根を共にしている人の名前さえ知らない。悲しいかな、数年前から私もそうだ。

つまり、現代とは、こういうことだ。

同じ屋根の下でも、根が違う!!


最近ではよく、現代人が現代人を現代人と呼んでマウントを取ろうすると光景(液晶)を目(器官)にする。非難して比較して批判してバラバラになろうとする。そんな「個の時代」は終わりかけだなんてことを言ってさらなるマウントを取ろうとする人もチラホラいる。

ほら、気付けばこんな風に、私は彼らにすらもマウントを取ろうとしてしまう。あぁ、なんと罪の根の深きこと。


根を同じくし、同じであるということ。

それを感じるには共同体意識、有機体意識、流動体意識に浸透し、入我我入の我(自己意識)すらも忘れることが求められる。

これすなわち仏陀の極致「正見」に他ならないのではないかと思う。

しかも悲しいことに、ほとんどの

根は一度千切れたら二度と繋がらない。

一方が育てば、他方は土に還るだけだ。


「われわれ」が「われ」である「リゾームの時代」は古代か未来か。

「われわれ」はいかにして、この根源的分裂症を乗り越えるのか。

いやしかし、生き残ったものが「われ」になるであれば、

「われわれ」はすでに「われ」であるとも言えよう。


そう考えるとたしかに、

根は一本たりとも切れてなどいないのかもしれない。

まだ確かにつながっているのかもしれない。

いや、間違いない!


迷うなかれ!戸惑うなかれ!案ずるなかれ!

「個で考える」ことなど初めから不可能なことなのだ!

われわれは常時「われ」を感じているではないか。

この知覚こそがそれだ!
あぁ、そうか、やはり私は受信機だったのか。


なーんつって、

受信、応答することしかできないのなら、

バラバラなのは変わらなくって、

寂しいかぎりだ。


阿頼耶識にひきこもりたい

それが根の根だろう。

わかってるさ、わかってるけど、

陽の光も浴びたい。


つまり、暗闇と光明が分かたれる前にもぐりたい。

超越主義、超絶主義の奈落の底の天幕の中


そこで普通に生きてみたい。

あ、でも、ここがそこかもね、



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