万人始祖論:超言語述懐
『自由言語』の提案
◆導入:主客分離は問題でない。
自己の発生の前に、世界的な始まりがあるなんてことはありえない。
世界的な始まりを認めるならば、それは世界に対する自己意識の優先性を裏付けてしまうからだ。
ある存在に「始まり」というものが「ある」とするならば、われわれ、自己意識の集団、自称生命の群れはすべて『同時に』始まったと考えざるをえない。
すべての現象、過去も未来も『同時並行的』に進むのだ。日本神道ではこのような時間感覚を「中今」と呼ぶらしい。
したがって、殊にここ日本において
客観的事実なんてものはない。或いは必要ない。
これは時空間を超越した考えではあるが、
正しくは「時計」を超越しているにすぎない。
時間とは本来超越的なのであり、今日の人々の解釈様式が非超越的な方に偏っているだけだ。
つまり、この論考は超人的な思考ではなく、自然かつ人間的な認識論、「法然のことば」なのである。
客観がなければ、その対義語である主観という概念も存在する必要がない。
したがって、私は私として「生まれた」が、同様にあなたとしても生まれ、また、過去未来に生まれるありとあらゆる個体として生まれているのだ。
物理的隔離により一生会うことのない人が多数存在するように、時間的隔離が接触を阻むものも多数存在するというだけのことだ。
10年後の私が私であるならば、
太古に生きた虫がなぜ私でないのか。
万有すべてが私でないならば、私は私でいられない。
われわれは、現世を紡ぐすべてでなければならない。
生命は生の私物化を許さない。
◆示唆1:輪廻転生は問題でない。
「転生」は時間的順序を前提とした想像の話であり、非生命的理論である。
転生があるとするならば、「再び生まれる」必要があるのだが、「生まれ変わったような人物」が存在するからといって、それは生まれ変わったように「生まれた」のであって、転生したわけではないということもできる。
生まれ変わりがあるかどうか、という疑念は
一瞬前の私は同一人物か、という問題に等しく、
「言い方」「捉え方」「解釈」の話にすぎない。
だから私は今、これらの問題を放棄することによって解決とすることにする。
◆示唆2:言葉の意味は問題でない。
言語という「もの」があるという認識が間違っている。
伝わりさえすればそれはその瞬間だけ言語的なのだ。
言葉に意味があるのではない。
それを使う個体が各々に意味を与えているにすぎない。
書物があるからその時間的変化は緩やかであるように思われがちだが、母国語の語彙の内でも理解不能な単語は多いし、未知の言語であっても部分的に理解可能な言葉もあるだろう。
人は知ってることしか知らないし、その範疇でしか思考できないのだから、知らないことを知らないのは当然ではあるが、その範疇があまりに違いすぎれば、解釈の解像度には雲泥の差が生じてしまい、互換不可能な事態が起こる。
言語なんてものはないし、
名言やことわざを鵜呑みにすることは現実を歪曲させる。
言葉が意味を持つと信じてる者たちと、言葉の多層性と多義性を知る者たちとの間での会話は一見成立しているように見えて、交わしている情報はほとんど全く異質なものであると言っても過言ではない。
これはハエと人、アリと象、かれらの世界が「同一でありながら、別物である」というのと同様である。
◆示唆3:苦難・不安は問題でない。
苦難という単語の意味をここでは「快楽」とし、
不安という単語の意味をここでは「安寧」としよう。
さて、快楽・安寧は問題であろうか。
あまりに過ぎれば問題でなくはないだろうが、
ここではあえて問題視する必要性を感じない。
地獄と書いて現実と読み、極楽浄土と耳に届き、エデンの園だと人に伝える、などといったことが多分に起こるのが現世である。
◆結論:あなたは何を何と言うか
自由とは自由に縛られないことだ。
幸福とは幸福に囚われないことだ。
人間であることとは人間的過ぎないことだ。
では結論は、結ばれる直前までは何なのか。
結ばれなかった結論は本論なのか、総論なのか。
このように、思考はすべてダブルバインドなのだ。
考えることでそれは問題となり、
考え続ける限り、その問題は解決されない。
思考を止めること、瞑想を行うことがある種の解法ではあるが、止めているという「自覚」すら消すことは至難の業である。認識を止める機能を獲得した生物の存在は、生物の語意に多大な影響を及ぼすからである。
そのため、暇さえあれば手当たり次第に問題視し、飽きたら手を替え品を替え、問題のすり替えを繰り返すというのが知恵ある人々の常套手段、もはや習性のようである。
それゆえ、かれらはどこまでも辛気臭く、胡散臭い。
さて、ではここで口直しに、
思考の意味を「アイスクリーム」、ダブルバインドの意味を「美味」として、この問題に向かい直そう。
『アイスクリームはすべて美味なのだ』
ああ、なんと甘美な響きだろう。
知覚、六根とは本来こうでなければならないような気がする。
つまりはこういうことだ。
・頭の良いやつはすこぶる頭が悪い。
・思考は「いいように」操作可能である。
・文字や音は入れ物でしかない。
・理はそれ自体では理たりえない。
「世界」の意味を変えてしまえ!
「わたし」の意味を変えてしまえ!
味の好みは人それぞれ、ということに何の不思議があろうか。
さあ、われわれは各々が始祖だ!
始祖とは、ウジ虫であり、絶対善であり、自己超越である。
謝辞:
この記事の想念を練るにあたり、現代の偉大なる超人『トーリク.Vチャイカ』様の思念の影響を強く受けた。最後になりますが、ここに感謝申し上げます。誠にありがとうございます。
すべてのわたしに幸多からんことを。
はて、幸とは何のことだろうか。
幸の一例✨
いい解釈(思考)で「社会的最大値」の上限を解放し、
いい油脂(神経)で「個人的最小値」の低下を抑える。
そんな元気はないよ、という方はこちら