「・」。すべての「点」は人間的な汚点であり、知性のなおざりだ。
・。点。てん。
識別可能な対象の極小単位。
理解の最小単位。
知的な微小存在。
微分可能な微小部分。
◆世界にあってないもの
時点。地点。原点。頂点。中心点。
◆言語(空想世界)を秩序づけるもの
句点。読点。濁点。レ点。傍点。
◆観念的であり、どこまでいってもきりがないもの
観点。汚点。利点。欠点。争点。
そこに点を識別するとき、
意識は必ずその外側からそれを俯瞰している。
まるで、他人事みたいに。
わたしは人(と呼ばれるもの)であるから、人々を点々だとは思わない。
人界に、少なくとも日本語に人点なんて言葉はない。
きっとそれは「失礼」にあたるだからだ。
人はこれを代わりに人間と呼ぶ。よしよし。偉い。
しかし、『人数』という言葉はある。
これは個人的にはギリギリアウトだ。失礼だ。虫唾が走る。
世界を点だと思うか。いな、人はそこまで広くない。
しかし、世界を点の集合だと考える人はいる。
その説でいけば、点の集合(人)が点の大集合(世界)を隈なく思慮可能だということになる。
それ即ち、「∴」この点の集合が、点の集合(人)を思慮可能だと言っているに等しく、この説では思慮・識別・知性が意味を成していないことが推察される。
人々は、点に関することになると急に躍起になる。
まき餌に群がるコイのように、
火影に群がる虫のように、
まるで、なにかに取り憑かれたのように、
点について苦慮し、理解したがる。
しかし、その点は、自分が勝手にそこに付けただけであって、
自分が勝手に「ある」と思い込んでいるだけであって、
あらゆる点は、無数の点の集まりであって、
近づけば近づくほどに、もとの点は「ぼやける」。
「知覚」という構造的認知の焦点の手前ではすべてがぼやけてしまうのだ。
もっともよく見えるのはいつだって認識の焦点にあるものだけ。
認知の焦点
すべてが一処に集まる箇所
「今ここ」「今中」
「わたし」「全にして一」
そして、その点では、あらゆる「もの」がその熱で
瞬時に気化し、「こと」に変わる。
その一点にすべてが集まるのだから、その時空間密度、熱量、念量、思量は計り知れない。
まさにすべてを焦がすに相応しいエネルギーを有し、燃焼という事象さえも燃焼させる、「無量」のものとことの臨界点がそこなのだ。
点が点であることもままならず、ゆえにそこは点であって点でない。
つまり、この「無点」こそがあらゆる点のうちで真に点たりえる点ならざる点。すなわち、全点にして空点。
この世に「点」たることが許される点があるとするならば、それは「神」にして「わたし」であり「全存在」であるこの「無点」だけであり、
それ以外の点はすべてこの点から分岐した、いわば紛いモノ、仮初の点なのだ。
無点、ソレすなわち
原点にして頂点、
神にして大根、
私にして車、
虎にして壁、
右にして上下、
ちくわにして宇宙。
無点の内にあるものなし
無点の外にあるものなし
無点の内にあらざるものなし
無点の外にあらざるものなし
「あぁ。だから。
ここにはすべてがあって、なにもないのだな。」
燃やさなければ見えない
燃えなければ見えない
しかし、燃えてしまったら見えない
見えるものは燃えかけのものだけ、
あぁ過渡期、あぁ過渡期
存在から非存在への移行の場
真実から虚像への移行の場
諸行無常 諸法無我 一切皆無 涅槃寂静