【流則】法則はすべて引き寄せの法則
多い方、多い方、
低い方、低い方、へと流れ流されて、
そもそも流れとはそういうもので、
この法則に名を付けるならば、
流れの法則というよりは「流則」だろう。
流則には無数のスケールがあって、
それらが相互的に連動してかつ折り畳まって、
その時、その人、その文脈では
ひとつの法則としてバランスして「見える/た」ということだ。
つまり、法則を語り、活用しようとする者は、
よくも悪くもその法則の存在力を助長することしかできず、
それはせっかく見えた法則のバランスを壊すことに繋がる。
自然科学が破壊活動に見えるのはそういう訳だ。
単なる同意は「反対意見の破壊」である。
ゆえに意見には意見せず、共感に留めておくのがよい。
そもそも人にものを語るということは、
理知を吼えて比べ合い、諸々の法則の力関係を明確にし、
真実のバランスを取ることに真の目的がある。
これを「語則」というのであれば、
釈迦の説法が獅子の吼えるが如くであったというのも頷ける。
人の話を聞きなさいという者がいる。
人の言うことに耳を傾けろという者がいる。
そういう者たちの心情には、
「理解されたい」「共感してほしい」という渇きがある。
聖なる者はそれを聞き、応えなければならない。
解剖学的な目、鼻、耳などは飾りであり、
言語学的な単語、意味、文法はただの法則である。
脳をつなげ、
意識界・感覚界を共にし、
飢え(意見、欲望、主張)が発生するのを未然に防ぐ。
IT・文明がしようとしていること、
ガンジーがしようとしたこと、
聖徳太子が行ったこと、
空海が祈祷したことはおそらくこれである。
が、しかし、そんなことをするのは
マハトマ・聖職者・祭司に任せればよい。
「かれらの仕事を奪わないこと。」
それだけが、わたしが諸君に求めることである。
さぁ、金にすらならないようなかなしいことは控えて、
いがみ合わず、なるべくスムーズに、、
限りある「仕事」を分け合って生きよう。
そうなれば、
そうすれば、どうなるか、という
「ああすればこうなる」が無数に分岐して、
言霊に命が宿るんだと、私は思う。
でもそれは、各々が各々であることに他ならない。
各自が勝手にたしかめればいいことだ。
わかったらもうお行き
意思にも法則にも縋らないやり方がある
一つ一つが「ひとつの流則になる」こと
たがいの流儀を温めよう
『法則ー流則ー語則』のトライアルアングルを鳴らせ
⛪カーン、カーン💐🌸
あなたがチャペル