<言語の罠>ヴィトゲ○○とか弘法大師○○とかゴータマ○○の視覚【閲覧注意(無生産的な話)】
「ことば」について少なからず違和感を感じてる方へ
※この記事は、法に触れます。
ダルマの業火に触る覚悟のある方だけお読みください。
前作的なやつ↓
言語の罠
いつの時代も、どこの地域でも、暇さえあれば人は言葉を使う。
テーマは間違えど、だいたい問題は似通っていて、その根底にあるのは
「知識の誤配」「言語の罠」とかって言われている。
言語能力の発達は年齢にほとんど比例しないから、
いつまで経っても人々の問題意識は尽きない。
そもそも、「言語能力が未熟だから問題が生じるのだ」と気付かぬまま耄碌する者も多い。
かれらの一生は、ネコ語を話すイヌのようなものだ。
なんとも憎めない、かわいらしさがそこにはある。
原因1.ないものをまるであるかのように言う
国、ありません!妄想です。
文化、ありません!でも、大事にね。
家族、いません!でも、親切にね。
愛、ありません!でも、必要です。
健康、ありません!気の持ちようです。
価値、ありません!期待してるだけ。
抽象や動態や総体や部分として言い表わされたものは
「具体」ではないから、
本来、主語にも目的語にもしてはいけないのよ。
生命は~とか、
人間は~とか、
自然を~とか、
友達を~とか、
可愛いは~とか。
そんなものは清浄な言語ではありません。
概念空間に迷妄の種をばらまいているだけです。
これは唯識思想とかって呼ばれるけど、そんな大層なものではなく、言葉に圧縮すると余計にわからなくなるので、名付けるのはやめましょう。
原因2.共通言語と私的言語の区別
1に挙げた経験的な秩序、感覚的な陳述はしばしば「私的言語」と呼ばれる。
その個人(集団)にとっては「正」であるが、あくまで特殊解的言語秩序であり、一般解が存在しない場合が多い。
これは女性的な会話によく見られる、場当たり的な、ミスチル的な言語だ。
対して、「共通言語」とは、
事典・専門用語便覧・哲学書・権威的な文書にあるような、
言語そのものについて言及した言語のことを言う。
つまり、
私的言語における最大の問題は
一般的でないこと、普遍的でないことだ。
そこには「共通経験」が必要不可欠なのだ。
共通言語における最大の問題は
トートロジーであること、自己言及的であることだ。
そこには「私的経験」が必要不可欠なのだ。
※共通経験:共同作業。目を合わせる。こころを通わせる。以心伝心。顕的密。信仰。
※私的経験:孤独。フィーリング。理解した感。納得感。感覚。所感。感情。密的密。虚無。
原因3.集中力
疲れた。眠い。。って時に、思わず言葉が出なくなるように、
言葉をうまく使うには意外と体力と精神力が要る。
これは人類が、未だに言語に追いついていないからだ。
これまでの人類が生きてきた社会はそれほど、
清浄な言語を扱うに足る集中力を有する「必要がない」組織だったのだ。
これからの言語活動はどんどん大変になる思うよ、、ほんと、
組織の中でも、構成員の経験がてんでバラバラだから、
私的言語と共通言語の幅がドンドンドンドン広がっていって、
たぶん、本当にごく一部の人しか耳が機能しなくなると思う。
聖徳太子をスタンダードにする必要が出てきて、
当然、脱落者の割合も増えて、
人間と呼べる人間はそれこそ世界で5億人以下になるんだろうなぁ。
人間と呼ばれない人間が何と呼ばれるかは知らない。
たぶん、人間と呼ばれはするだろうけど、
裏で、末人、あるいは世人、畜人、何と呼ばれようと、
仕方がないとは、思うんだ、、つらい話だけど。
以上にあげた「言語の罠」を無視して進むのが、
・プラグマティズム:実践主義
における向こう見ずで多動児的で小児病的な所業
(567対策とかワク○○騒動とか)
あるいは、
・ショーペンハウエル、シュタイナー
のような、切実で優しく、「必要最低限の鈍さ」をかね揃えた所業
(ヨガとか自然農とか菌との共生とか)
なんだけど、
この先って、本当にどうしようもこうしようも、、ねぇ
ごめん、
ちょっと今日は疲れたので、寝る。
おやすみなさい。
ps.
とりとめのない話でごめんなさい。
でもぼくは、とりとめのある話ってあまり見たことがない。