新陳代謝の重要性:生の対義語は死ではなく、管理社会
シンギュラリティについて:
機械が人間を超える前にまず、多くの人間が「機械化」する。
これは未来の話ではなく、産業革命以降ずっと進行している。
〈永遠の命〉
延命を望んだ時、はじめて死が約束される。
死を身近に感じた時、はじめて延命を求める。
死ぬまで死を想像しなければ、死は永遠に訪れない。
仮に他者が死ぬのを見ても、我々がその時体験する死は死者のものではなく、どこまでいっても生身の自分にとっての死である。
死は想像の中にしか存在しない。
死は状態ではなく、認識である。
自分が死ねば、認識は消える。
ゆえに「自分が死ぬ」という事実は起こりえない。
永遠の命という「言葉」が我々を主客分離し、殺すのだ。
命は本来終わるものでもなく、続くものでもない。
生命とはただ「ある」こと、それ以上でも以下でもない。
〈持続可能性〉
持続を望んだ時、すでに崩壊は予期されている。
衰退を感じた時、はじめて持続を求める。
持続を求めるものは滅びるであろう。
滅びたくなければ、持続してはならない。
持続したければ適応し、変わらなくてはならない。
変わるとは代謝を行い、犠牲を払うということだ。
供犠こそが持続をもたらす。
生贄にされればそれ自体は持続できない。
変化とは分裂である。
持続とは分裂である。
生存はいつも片側で、どこまでいっても偏狭だ。
偏狭であり続けようとすること、それが生存欲求だ。
「生命力」とはまさに生存者バイアスの強さだ。
しかし、バイアスの中にいる限り「真実」は拝めない。
真実を見、真理を知るために我々は生存し続けるわけにはいかない。
世界が生命的であるためには「無限の生死を繰り返す」従来の型でなくてはいけない。
過度な持続欲求は生命への侮辱だ。
循環なき淀んだ社会では、例え生者であっても「生命力」なき無機者(ロボット,人工知能)となる。
この意味で、生の対義語は死ではなく、生命物理科学(管理社会)であろう。
悲しいことに、生物が自ら「私は生きている!」と証明しなければいけない時代はもうすでに来ている。
物心付いた時から生きるか死ぬかを随時選べるようになったらこの物語はお終い。
その選択すら管理されているのだから。