【メタ認知】あらゆる認知はそもそもメタ的である
[認知]
それすなわち事体のメタ化、あるいは昇華、逃避、次元上昇、または情報次元の多層化・複合化。
-n:虚(空の空の空の空の......)
・・・
-1:虚(空の空)
-0:虚
0:空(有かつ無、無かつ有)
+0:有(実存事体事体事体事体.......)
1:存在事体(実存)
2:物事体(存在)
3:物(他との関係性を持つ状態)
4:物を見る私
5:その私を考える私
6:その私を思う私
7:その私を感じる私
・・・
m+1:その私(m)を超越した私
(便宜上、離散的な数値を用いて認知段階の層構造を表す。)
(n,mは任意の正の整数。)
ここで重要なのは、
私たちはすでに到達した(あるいは実感、想像、幻想した)ことのある、
あらゆる認知の緒段階を一挙に(一カ所に、一気に、一遍に、一度に)
知覚できるということである。
ゆえに、次元上昇したから偉いとか、
上の者は下の次元のものを引き上げねばならないとか、
そういう話ではない。と私なんかは思う。
「あなたが赤子のときすでに老人がいたように、
あなたが老人のときに生まれる赤子もいるのだ。」
全員で、とか、全体で、とか、平等に、とか
そういった一律的なものの考えは自然界(複雑怪奇、荒唐無稽、不定形なもの)には存在しない。
そんなことは、人為的な人間一般の肩身の狭い〔この世〕に限った話であって、
私がここで言う世界には〔この世〕と〔あの世〕が同列の存在として一遍に「ある」。(かつ、どちらも「ない」とも言えなくもない)
意識レベル(認知の厚み)が高い状態
例えば、本のページをめくる直前、私の知覚の内では、まだ見ぬその紙面上ではあらゆる「可能性」がダブっている。それはとてつもない情報量で、私の脳と心は途端に疲弊してしまう。
だから意識レベルが高い時、私はこれといって何もできない。
本も読めないし、何か書くこともできない。
意識レベルが最も高い時、私はただそこに存在しているだけのナニカになる。
ナニカとは「まどろみ」でもあり「覚醒」でもある。
意識レベル(認知の厚み)が低い状態
それは唯物論的あるいは唯心論的世界観により、
この世界を二項対立、あるいは判断や選択といった道具によって「色」で塗り分けようとする。
そこには一切のダブりがなく、何事も一目瞭然であり、「あるものはあり、ないものはない」「私以外私じゃない」などの名言が散見されることだろう。
これは私にとっては、恐ろしくつまらない、退屈な世界観だ。
しかしだからといってそれが「悪い」わけではない。
その状態が「良い」人も中には少なからずいるのだろう。
だから、場合によっては、意識の高い低いというのは、一般的に高い方が低く、低い方が高いと言われることも十分にありうる。
したがって、次元の高低や意識の高低にこだわることそれ自体が、
認知の薄さを露呈することになると思う。
これはあくまで、
この世に憩う意欲的で善良な人間様に喧嘩を売っているわけでなく、
単なる個人的な見解としてここに表明させていただくことをどうかお許しくださいませ。
〔まとめ〕
・次元は高さではなく厚さ。
・意識は高さでなく厚さ。
・次元は移行するのではなく、ある連続性の中で積み重なっていく。
・意味や価値は、高めるのではなく超越すべし。
・誰かが作ったものを前提とするうちは、まだ生まれていないも同然かもね。
と言ったたそばからこれも既成概念になり、私はこれを超えなければならない。;;
あぁ概念とはなんと罪深い。