「正しい知識」は共有できない:救世主は君子ではなく投資家に近いのかも
以下、ブーメランを投げまくります。もし当たったらごめんなさい。
ーーーー
伝聞に頼ってはいけない。
真実は言葉では語りえない。
自分自身を信じ切ることすら難しいのに、どうして他人をば信じ切ることができよう。
そもそも彼らはどうして語るのか。
少しでも世の中を自分に都合のいいように動かしたいからではないか。
自分が得をしているうちは口を閉ざし、損害が生じたらばすぐさま大口を叩く。
言葉をむやみやたらに操るものを信じてはいけない。
彼らは言葉を通して共感を勝ち取り、他人を操りたいだけなのである。
人の手の加わった二次的情報はいわばすべて「作為の塊」である。
そこから本質的な一次情報を抜き取ることは容易ではない。
間接的に事物の本質を観察したければ無数の二次情報から最大の共通項を選び取る他ないが、それらの一次情報がすでに人為的に操作されたものであったり、一次情報に対する認識の偏向があったりと、事実を見極めるのは甚だ難しい。
したがって、道聴塗説はもとより自身の信じてやまないことでさえも、意気揚々と話すのは真実を語るべき場においてふさわしくない。感情的な語り手は全員何かしらのウソを付いていると思って間違いない。
事物を正しく知るためにはまず自他を正しく知る必要があり、自他を知るためにはまず自身を隈なく知る必要がある。
そのためには少なくとも言語学、心理学、生物学、医学、文化人類学などを教養として押さえる必要があるが、人の一生においてそれらを理解した気になるころにはほとんど耄碌して何もわからなくなる。
例え真理にたどり着いたとしても、経験一つ増えるたびに再分析、再検証、最適化を行う必要があり、それは認知ある限り終わらない。
仮に全てをわかった気になっても、生きる上で"まさか"や"ひやっと"がなくなることはないだろう。
知識があるということは素晴らしいことではあるが、世の中の多くが知識に裏付けされないひどく直感的な行動で成り立っているということを踏まえると、影響力の観点からすればいかなる崇高な知識も「無知という若さ」には遠く及ばぬものであることは認めざるをえない。
したがって、知識とは、あったらあったで役立つが、ないならないで何とかなる。仮に何とかならなくてもそれは大したことではない。
うまく使えば万有を改変する力となり、手に余るうちは無用の長物である。
一般家庭にひどくよく切れる包丁が少ないように、知識、理性、判断力等の内的な道具も社会の中において相応しく使われなければならない。
しかし、「能ある鷹は爪を隠す」「良く実った穂は首を垂れる」というように、智慧ある者、正しく覚った者、知慮ある者がその社会に頭角を現し、世を正しく導くということはあまり期待できない。それをしないが故に彼らは彼らたりえるのだから。
世を導いた賢者は世に消費され悪用もされる。
故に真の賢者はそれをしない。
彼らは世が良い方向に転じる時、その前兆をいち早く掴んで初めて声をあげる。
かなしいかな、彼らが治癒の見込みや改良の余地のない世界を救おうとすることはない。
したがって、黎明期を除き、世に出る賢者のほとんどは二流以下である。
良識は世界を救えない。
大徳は生死を生死に任す。
良識は危機的状況に陥らないように予防することしかできない。
良識は易々と世界を見放す。
救世主はえてして独善的である。
そうでなければ務まらない。
ゆえに私は救世主にはなれない。
誰一人として救おうと思ったことはない。
いやそもそも、私は「救われたい者」の存在を認めない。
つまりさ、みんな気づかないだけで、実は願うより先にめちゃくちゃ救われてるってことよ
隠れ君子と賢者たちによって