解脱の弊害:マインドフルネスという症状:記憶について
これは私に限った症状かもしれないが――
諸行無常を覚り、種々の執着が少なくなると、
実物を表面的に「見る」ことができなくなる。
見れないから形を捉えられない。
捉えられないから覚えられない。
覚えられないから思い出せない。
思い出せないから比べられない。
起床している間は「今」がすべて、
目の前のものがすべて、
現在知覚しているものがすべてになり、
好き嫌いなどの判断がなくなる。
マインドフルネスはある精神状態においては避けられない「症状」であり、好き好んで目指すようなものではないと思う。
今に集中することはさみしい。
親の顔も、旧友の顔も、恋人の顔も、直接見なければ心に浮かばないのだから。
私は今現在において、実物、写真、または画像を見たシーンが過去にあったことを認めることはできるが、そこにあった二次元的あるいは三次元的な像を思い浮かべることはできない。
私が今、彼らを思い浮かべたならばそれらは途端に分析され、構成材料とエネルギーと照明と観察主体とに分解されて、もはや見分けが付かなくなり、「その人」ではなくなってしまうのだ。
私がその人をその人のまま思い出そうとしたならば、宇宙の始まりから、もしくは私のスタートから時間的に順を追って、世界全体を再現し、任意の時点まで進め、任意の場面にフォーカスすることでしか成しえず、それは「想像」というよりも「創造」に近くなってしまう。
おそらく本来、今ここで、過去を部分的に思い起こすことはできないのではないのだろうか。
今ここで過去を思い出すには、最過去から推し進めて「過去たる今」を頭の中だけで再体験するしかない。しかしそれで本当にものを思い出したことになるのだろうか。
つまり「思い出す」という感覚が、私にはわからない。
などと、うだうだとさみしさを語ってはみたが、
ただ個人的に映像記憶ができないだけの話かもしれない。
普遍的なことにしか興味がないただの贅沢者なのかもしれない。
あるいは、一種の若年性認知症なのだろうか。
私の中に記憶や思考はあっても、思い出はないのかもしれない。
未だに私は記憶というものがわからない。
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あなたがネコを思い浮かべた時、そのネコは確かに生きていますか?
それは本当にネコであって、その生き物はその内に地球という莫大な生態系の一端と膨大な遺伝的歴史を確かに携えていますか?
生き物をそう易々と想像できるものなのだろうか。
知人が今この瞬間も五体満足で暮らしている保証がどこにあるだろうか。
「勝手な決めつけ」なしに、ものを想像することがはたして可能なのか。
完全に「現実に基づいた判断」は判断と言えるのだろうか。
全く「記憶違い」でない記憶などあるのだろうか。
解脱とは、解脱せざるをえなかった者が迎える生き地獄なのかもしれない。
「あらゆる状態はその時々にその状態を余儀なくされているだけ。」
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