必ず誰かに見られている
早朝、まだ暗いうちにゴミ捨てに行ったら、一方通行の道を一台のオートバイが逆走していった。
新聞配達だった。
その道が一方通行だと知らなかったとは考えにくい。
まだ暗くて人通りもほとんどないし大丈夫だろう、くらいの軽い気持ちで逆走したんだと思う。
あの調子だと、おそらく毎日のように逆走を繰り返しているのだろう。
たしかに、朝刊を配達する時間はめったに車も歩行者もとおらないし、誰にも迷惑はかけていないかもしれない。
逆走しないと、配達ルートからして遠回りになってしまうのかもしれない。
だけど、どんな理由があっても一方通行を逆走していいということにはならない。
こんなこともあった。
まだ交通量の少ない時間にベランダから外を見ていると、信号無視する車や歩行者が多い。
安全に渡れるからといって、信号を守らない理由にはならないはず。
両者に共通しているのは、おそらく
「誰も見ていない」
という心理だと思う。
誰も見ていないから規則を破っても平気だろう、
誰も見ていないのに面倒なルールを守るのは馬鹿馬鹿しい。
そんな心理が、人の行動を悪いほうに変えてしまう。
でも、実際私が見ていたように、誰にも見られていないという状況はほとんどない。
よりによってというくらい、必ず誰かしらに見られている。
昔から、「壁に耳あり障子に目あり」というように、どこで誰が見たり聞いたりしているか分からない。
このことは、悪い行いだけではなく良い行いにも言える。
とかく人は怠惰で楽することを考えがちだ。
なんの得にもならないのに、わざわざ良い行いをしようと思う人は少ない。
むしろ、損だと考える人もいるだろう。
だけど、ちょっとした良い行いでも、必ず見ている人はいる。
そしてそれは、すごく大きな信頼を生む。
誰も見ていない(と思われる)状況でどんな行動をするかに、その人の人間性が現れる。
普段はとても真面目で好印象な人でも、誰も見ていないところでは怠けているかもしれない。
逆もしかりである。
物事を損得や利害で判断する人は、誰にも見られていなくて、なおかつ迷惑もかけないんだったら、ちょっとくらい手を抜いてもいいじゃないかと考えるだろう。
それが、処世術だと。
だけど、万が一その行いを誰にも見られていなかったとしても、自分自身はそれを見て、聞いて、知っているのだ。
そうしたことが続くと、何より自分が自分を信用できなくなる。
「自分は、誰も見ていなければ規則をやぶる人間だ」
ということがインプットされてしまう。
そんな人は、きっと悪い誘いにも乗りやすいのではないだろうか。
かくいう私も決して善人ではないけれど、せめて自分で自分の信用を損なうようなことはしないで生きたい。