想像もしていなかった日々で気づいた「自分」のこと
足先が床についた瞬間に凍るような冷たさを感じた。つい先日「あったかいね」なんて言ったのが嘘みたいだった。一人暮らしの家では意識をして掃除ができるスリッパを履くようにしているけど、ここは実家だ。足に着くほこりなんて気にもせず1階に降り、和室の扉をあけると猫がDVDデッキの上に座っている。見た感じを音で現わせば一見「ちょこんと座っている」になりそうな猫だけど、実は下半身がドッシリ体型なので「ドシッと座っている」が正解。
猫に挨拶をしてこたつに入る。すると、猫が甘えた声で膝の上に乗ってくる。つい2か月前は「小さくてカワイイ」なんて言いながら「膝に乗ってほしい」と懇願していたのに、今では「うう、重たい。さすが重量級は違うな」と足の限界を感じながらスヤスヤと眠る猫の顔を撫でる時間はいつの間にか「当たり前」になった。そういえば買い始めた当初は猫を飼っていることを忘れていて、大きな鼻歌を歌いながら部屋に入ったら驚いて逃げられたこともあった。
人間は慣れる生き物だ。あれだけ苦手だった上階の人の生活音もほとんど聞こえなくなり、気にならなくなった。時間は確実に進んでいて、気にしていた過去や、大事にしていた日々を「今」の忙しさや不安で忘れてしまうことがある。そうしないと、上手に生きられないのも分かっているけど少し寂しいなと思ってしまうのは、自分が過去にしがみついているからだろうか。
猫を撫でながら関西ローカルのテレビを観ていると、彦根城がうつった。その瞬間、突然頭の中に「湖の街 彦根の空~」と近江高校の校歌が流れてきて、あつくて堪らなかった日差しの強い夏が浮かんできた。一瞬で夏の香りに包まれて、目の前には綺麗な水色のユニフォームを着て横一列に整列をする球児の姿。そんな風景が一瞬だけ目の前を通り過ぎて行くような不思議な感覚を覚えたとき、撫でていた猫が「にゃあ」と鳴いた。
目の前を流れた夏は随分前の夏のように思えるけど、まだ1年も経っていない。この半年がいかに濃密だったか、そして日々は自分が考えもしなかった毎日の連続だった。そんな日々にも「慣れたな」と感じてしまうのが人間で、いつしか新しいと感じているこの日々も当たり前になってしまうのだろうか。
本来、人と会わず在宅でこつこつ仕事を続け、仕事終わりにお気に入りの喫茶店に行きゆっくりコーヒーを飲んで、入りやすくて雰囲気の良いお酒が美味しいお店で適度にバイトでも出来たら…そんな暮らしを考えていた半年前。今思えば「高すぎる理想」とも呼べる生活は、ある一定の時期までは自分の手で掴めそうな範囲にあった。
でも、今の自分がしている生活は毎日誰かと会ってアルバイトをし、空いた時間に記事を書いて、なんだかバタバタと過ぎるだけの生活になっている。もちろん、今私が金沢という街で生活をしていくためには必要なこと。そして、それ以上に関わっている人たちが温かく、久しぶりに人と関わる仕事をしていて喜びすら感じているのが現実だ。
だからこそ感じてしまう。「この日々を自ら手放すなんてバカじゃないのか」と。
2月にこっちに戻ってきたとき、私は母に伝えた。
「5月末までには大阪に戻ってくる」と。
ネガティブな決断ではなく、自分が「本当にしたいこと」を長いスパンで叶えるための決断。
一度決めたことがあると、もうその道しか見えなくなるのが自分の良いところでもあり、悪いところでもあった。白黒はっきりしているタイプで中途半端な決断ができない。
そんな私が今「まだ金沢にいてもいいんじゃないか」と思っている。
夜中、変な時間に目が覚めた時に感じた気持ちだったから、将来への不安でそう感じているだけだろうともう一度目を瞑り眠りについた。
起きてからもなんだか心がモヤモヤしていて、とにかく「このモヤモヤをどうにかしたい」と感じたので、布団に寝転がりながら頭の中や心の中に浮かんでくるモヤモヤを全部言葉にしたらすごくスッキリした。そして、書き終えた時に母に送りたくなった。
偶然にもその日は母の誕生日だったので「おめでとう」の言葉と共に、メモに綴った言葉をコピーし貼り付け送信した。誕生日のメッセージが「ついで」っぽくなったので、おめでとうのスタンプを送ると、よりくどくなって消したくなった。そんな朝を越えて私は今、帰省をしている。
正直、何がしたいのかがそこまで明確じゃない今、世間で起こっている様々な状況や問題のことを考えると、現時点で就職先を探すことはかなり難しい気がする。それに自分がしたいことは見えているはずなのに一部分がぼやけている。
自分のしたいことは全部自分で見つけて、やりたいことだけを選択して生きてきた私が「どこかの会社からうちで働いてくださいって言われたら飛んでいくのにな…。」と感じている。2020年の3月25日を生きる私は昔の私とは違うのだ。
昔も今も「自分」が1回きりの人生を歩んでいる自覚は強く持っているつもりで、だからこそ「自分のしたいことをやろう」と「自分のためだけ」に生きてきたつもりだったし、これからもそうする予定だった。
でも、最近本当の自分がしたいことは「自分のためだけに生きること」ではない気がしている。いや、本当は昔からそんなことを考えていた。でも、できないと思っていた。理想の暮らしに「一人で暮らすこと」を前提にするような自分が誰かのために生きることを選択できる道は無いと諦めていたからだ。
でも、やっぱり諦めたくないと思ってしまう。忙しくて忘れてしまう大事な過去や、楽しかったあの日には必ず「自分を強くしてくれる人」がいた。お笑いをしている人、音楽をしている人、野球をしている人。そして、自分と関わってくれる人。
どんな時も人の人生に触れる瞬間が自分の生きる糧になっていた。だから、もうそこから目をそむけたくないし、「できない」と思いたくない。
そんなことを改めて感じられたのは、想像していた暮らしとは全く違う金沢での生活を始めたからだろう。そう思うと、金沢に行って良かったと思うし、ここからまた新しい自分の人生が始まると思うとワクワクする。
ただ、今は「すべきこと」が明確に見えていないのが現実。感じる不安とどう向き合うかが分からない。それでも、時間は当たり前のように過ぎて、この悩みもいつしか「無かったこと」になるのかもしれない。
忘れないために過去にしがみつくのではなく、忘れないために今を生きよう。だから、たくさん悩んでいいや。と自分に言い聞かせた。今日はそんな日だった。