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必要がないと思うしかなかった”特別な”日常

これが当たり前なんだと思い込んでいた。家から出る前に箱からマスクを取ること、こまめに手をアルコールで消毒すること、くしゃみをしそうになったら誰かが周りにいないかを確認してちょっと厚めに折ったハンカチでマスクを覆うこと、その後周りからどんな目で見られているのかが怖くなって、前を向けずに下を向くこと。

いつの間にか当たり前になった日常にちゃんと順応していた。これはきっと良いことだ。歯向かうこともなく、ただ目の前で起きていることへの”対策”を自分なりに行って、自分一人で生きている世界ではないから…と、周りのことを想った行動を心がける日々は、きっと必要なことであり、良いことなんだと思っていた。

だから、忘れるようにしていたのかもしれない。何気なくて特別な一瞬や、大好きだった瞬間を。

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真っ赤な照明が舞台をバチッと照らす。私の目に飛び込んでくるのは、力強い光に照らされた舞台で演奏をするバンド、そしてそれを見つめる人たちの姿だった。

私にとって当たり前だったこの風景は、とてつもなく久しぶりのように感じた。いつしか「必要のないもの」だと言われてしまったこの場は、本当に必要のない場所なのだろうか。

少し離れた席にはタオルで涙をぬぐう人の姿が見え、私の目頭もじんわりと熱くなってきた。同じ想いで泣いているわけではないかもしれない。でも、もしかすると同じ理由で涙を流しているのかも…。

そんなことを感じてしまうのは、きっとこの場に来るまでにさまざまな媒体を通してヒシヒシと伝わってきた『自分にとって必要であるものが、まるで必要じゃない』と言われる現実があったからだ。

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さまざまな光と大きな音が合わさる空間は特別で、ただその場いるだけで「ここにくるまで頑張ってよかった…」とこれまで幾度となく感じてきたはずなのに…。この本当に少しの贅沢な時間のために、一生懸命生きてきた日々があったはずなのに。

そんなことはまるで無かったかのように、誰かが言った「必要ないもの」というレッテルにいつしか自分が振り回されていたことに気づいた時、悔しくて、悲しくて、涙が溢れてきたのと同時に、「色々あった日々」を生き抜いた自分を少しだけ褒めてあげたくなった。

もちろん、もっと我慢をしている人もいるだろうし、まだまだ気が抜けない状態ではあるけど、それでもこの瞬間に感じた少しの労いの気持ちは、ちゃんと言葉にして自分に伝えてあげたいと思った。

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思い起こせばちょうど1年前の10月、念願だった金沢への引っ越しを決め、住む家も見つけた。10月5日を選んだのはその日に金沢で好きなバンドのライブがあったからだ。

そうやって「せっかく内見で金沢に行くならライブを観れる日に行こう」と予定を調整するぐらい、自分の日常にはライブと音楽の存在が当たり前にあって、それを「必要がないと思う日々」なんて想像したこともなかった。

それからたくさんのことが自分の身に起きたけど、それでも「今ある日々を大切にするんだ」と心に決めて、毎日を丁寧に大切にしてきたつもりだった。

日々を大切にしようと考えたときに、まず頭に浮かんだのがライブハウスに行くことだった。街中を歩いている際に偶然目に付いたコンビニに貼られているライブのチラシを見て「今度行こうかな」と思ったり、好きなバンドの少し先のライブのチケットを取って「この日のために頑張ろう」と考える時間は、ありきたりな日常の中にある”特別”な瞬間で、なくてはならないものだった。

それだけ大切にしてきた時間すらも「無い方が良い」と思い込まなければいけなくなった日常に、いつの間にか飲み込まれてしまっていた。

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苦手な秋の不思議な気温に頭を抱えながらリビングに降りる。
「今日も起きたい時間に起きられなかった」と自分のことを責めて、けだるい体をゆっくりと動かして、ポットに水を淹れてお湯を沸かした。

その間に電子レンジでチンした白湯を少しずつ口に入れて、マイナスから始まった一日の始まりを少しでも取り戻そうとする。本当はインスタでよく見かける#丁寧な暮らし とハッシュタグのついたアカウントのような生活を送ってみたいけど、自分の暮らしに時間をかけられるほどの余裕はない。だから、せめてもの想いでモフモフの実家猫を愛でる。

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そこからは当たり前で何の変哲もない日常を過ごすだけ。
仕事をして、ちょっと休憩して、また仕事をする。

「でも今日は違うんだ」と少しのワクワクを感じながら、いつもよりちょっと早く仕事を切り上げて、すぐに部屋に向かい準備を始めた。

準備が終わり、向かったのは大阪城野外音楽堂。
この日は怒髪天とフラワーカンパニーズのライブを観に行く日だった。
「今日ってバンド編成のライブだよね…?」なんてことを考えてしまったのは、少し前に野音で観たライブがアコースティック編成だったからだろう。

本当にあの場所で大きな音で演るライブがあるのかに疑問すら感じながら、怒髪天のドンマイ・ビートの歌詞にあるように、電車を一駅乗り過ごし、バタバタしながら最寄り駅に向かった。

会場に到着したら、QRコードを読み取って追跡システムに登録、検温もして証明書をもらって、会場前でアルコール消毒をしてから会場に入る。

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開演10分前ぐらいに到着をして驚いたのは、想像以上に多くのお客さんがいたこと。自由席のライブだったから自分の座りたかった端の席は空いているかな~なんて思いながら会場内を歩いていると、久しぶりの再会を喜ぶ声がたくさん聞こえてきた。

座りたかった端の席は結構空いていて、ここなら身長150cmの私でも問題なく見れることを知っている席を確保したとき、「こういう感覚は久しぶりだな」と思った。

座席に座って舞台を見ると、バンドセットが置かれているのが目に入ってきて、急にソワソワしてくる。

「本当にバンドセットでやるんだ」なんて、ほんの1年前までは当たり前すぎて考えたこともなかったことに緊張していると、清水音泉の清水さんが出てきて、アッという間にライブが始まった。

じゃんけんで勝った方が先行。まず流れたの怒髪天のSEだった。
聞き慣れたSEが耳に入った瞬間、目に飛び込んでくるのは、多くの人が立つ瞬間。音楽に合わせて揺れる人の姿。そしてSEに合わせて聞こえてくる大きな拍手の音。

「当たり前だった瞬間が戻ってきた」と心から嬉しくなった。もちろん座席はひと席ずつ空いているし、自由席だけど前との感覚が詰まらないようにそれぞれが考慮して座っているので、前みたいにギュッと全体的に詰まっているわけではない。

それでも、少し暗くなった17時の暗さと青白い光に照らされる大勢の人の姿がマッチした時、必要がないことにしなければいけないと思っていた、自分にとって必要な瞬間の熱を思いだした。

私はライブハウスが好きだった。その場で好きな音楽を聴くこともそうだけど、後ろの方に立って壁にもたれながら、自分と同じ空間を共有している人たちの楽しそうな姿を見ることや、握りしめたこぶしが光に照らされる瞬間を目に焼き付けることが堪らなく好きだった。

時間をかけて大切にしてきたものを、強制的に封じ込めた期間にかけた鎖がスルスルと取れて行く。ギチギチに固まっていた気持ちが和らぎ、肩の力がフッと抜けたのは、目の前で大好きな曲が爆音で演奏されていて、そこに静かに共鳴して拳を上げる人たちの姿が見えたから。

こういう日常をずっと待っていた。特別だけど特別じゃない。
大切にしてきたものを感じられる瞬間をずっと待っていた。

フラカンの圭介さんが「こんな夜のためなら俺たちは何回でも骨を折る」と叫ぶ言葉が、心を軽くしてくれる。(言葉の意味は置いておいて)
序盤に涙は出尽くしたので、終盤はただひたすらに笑顔だった。

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帰り道、近くのスタバで好きなドリンクを買って、ほんの一瞬だけベンチに腰をかけ、マスクを外してドリンクを飲んだ。じんわりと温まっていく身体と心。「良い夜だった…」とイヤホンをして、アップルミュージックを開く。今日のセトリ通りに聴こうか迷ったけど、どうしても今すぐ聴きたくて、フラワーカンパニーズの東京タワーを聴きながらゆっくりと帰路についた。


一生忘れられない日。
そしてもう二度と、自分が大切にしてきた日々のことを「必要がない」と思ってはいけないと気づいた夜。

わたしは、音楽がだいすきだ。




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響あづ妙
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