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幻影の吉原 ー永井荷風「里の今昔」と浄閑寺訪問ー

聖地巡礼

というイベントを、
すでに明治期に行っていたのが
永井荷風という文豪である。


荷風は江戸情緒が最後まで残る吉原を愛した。

「里の今昔」は吉原周辺を描いた
樋口一葉の「たけくらべ」や
広津柳浪の「今戸心中」に惚れ込んで
実際に荷風が明治30年代に「吉原」という土地を巡礼したときのことを
老境に入って思い出しながら紡がれた随筆である。



荷風が本作を書いたのは昭和9年。
この時すでに色街の中心は吉原から亀戸、玉ノ井の私娼窟にうつっていた。

明治44年の吉原の大火、その後の関東大震災によって
長きにわたった吉原の古い伝統も
奥ゆかしき情緒もことごとく滅んでしまった。

当時の吉原の衰退は荷風もみるに忍びなかったであろう。

わたくしは三十年前の東京には
江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。
そして、その最後の余韻が吉原の遊里において
殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。


「里の今昔」を読むと、江戸、明治期の吉原は
田圃に囲まれた場所に作られたということにまず驚く。

むかしの吉原は水田、竹藪、古池に囲まれていた。


メディアでみる「吉原遊郭」はまさに大都会の中心、
今でいう歌舞伎町や六本木、新宿のような
極彩色のイメージがあったので意外だった。


『たけくらべ』や『今戸心中』のつくられた頃、
東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従って電車もなく、
また電話もなかったらしい。

『今戸心中』をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。

東京の町々はその場処場処によって、各おのおの固有の面目を失わずにいた。

例えば永代橋辺と両国辺とは、
土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、
吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを
持続して行く事ができたのである。


庶民が「文明開花」の功罪を受けるのは
明治もずっと後である。
銀座にアーク灯という日本で一番最初に電灯がついたのは
明治15年。

荷風が明治中期に吉原巡礼をした時は
オイルや馬場車から電気へのちょうど過渡期であり、
庶民はまだ日本髪で江戸の生活を生きていた。

明治中期〜後期の吉原は、
まるで線香花火が炎が尽きて落ちる直前に
その名残を惜しむかの如く
華々しく炎の橙が強まるかのような、
最後の爛熟期だったかもしれない。。。


本作を読む10ヶ月前、

樋口一葉ゆかりの三ノ輪はうちから自転車でいける距離なので
中秋の涼日を見計らって浄閑寺に行ってきた。



生れては苦海
死しては浄閑寺

ー花又花酔ー


浄閑寺は吉原遊女の投げ込み寺として有名だった。


歴史
浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。

檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、幾十冊の過去帳が現存する。

遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである


浄閑寺HPより



浄閑寺の門の左手には、

小夜衣と呼ばれた遊女を祀った

小夜衣地蔵尊。


小夜衣さんは知らぬ放火の疑いをかけられて

火炙りの刑で亡くなったそうである。

とても古いものなのか、お地蔵さんの
顔はみえないくらいに削られている。。。


浄閑寺のお堂は、檀家さんしか開放されておらず、
お寺は綺麗に管理されていた。



墓地にドキドキしながら入ってゆくとすぐ右手には

吉原で絶世の美女と謳われた
若紫花魁のお墓があった。

若紫は明治36年、あと五日で年季が明けるときに
狂客に刺されて死亡。



お墓の奥には、吉原遊郭の遊女の無念仏、
新吉原総霊塔がそびえたっている。


慰霊塔は1793年に建立され、

現在のものは1929年に改修されたものが置かれている。


この慰霊塔に葬られている遊女の数は
二万人。


慰霊塔のしたに、格子があったので覗いてみると、
奥にはたくさんの生々しい骨壷が見えた。 



みんな遊郭の女たちなのか。。。。と思うと

ゾクっとする。

格子の奥は暗い。
まるで当時の遊郭の大小格子の奥で
ほのかな灯りをもとに笑っている白い首と手の遊女たちが
この格子の奥でも息づいているかのように。。。。


投げ込まれた霊の多くは20代前半とのこと。

明治期の吉原は
「吉原炎上」を描いた斎藤真一氏の著作が詳しい。
私も映画、小説と何度もみて味わった。



慰霊塔でお参りをしていると、
蚊やブヨに複数箇所やられてしまう。

夏の墓地=蚊‼️

この方式を夏が去るたび忘れてしまい、
夏が来るたびに実体験を伴って思い知らされる。。。


慰霊塔の向かいには永井荷風の筆塚がある。


荷風は生前、たびたび浄閑寺を訪れて
遊女の人生に想いを馳せ
自分が死んだ時は浄閑寺に葬ってほしいと願っていた。


しかし、今この文を打っているわたしは思う。

荷風は苦海に生きる遊女に同情していたわけではなく、
「吉原」という土地が隆盛を極めた
色恋と江戸情緒、自然の風光が抒情豊かに両立していた
過去の名残りを愛していたのではあるまいか。

その土地の残り香を味わうように
若き荷風は明治の吉原を歩き、愛し
老いた荷風はそのほのかな残光を書き留めた。


聖地巡礼は、そのゆかりの土地に行くことだけが
「巡礼」ではない。

過去に行きし巡礼を時間を超えて
その時の興奮を現在に文字という形で甦らせることも
新たな「巡礼」かもしれない。


荷風のお陰でその世界が恋しくて恋しくて仕方がないような
巡礼の嗜み方がわかった。

わたしは明治〜昭和の時代が恋しくてたまらない。

そして「里の今昔」から派生し、今私の夜読書は
樋口一葉ブームが到来している。

次は一葉記念館に滅びゆく明治の面影を探りにゆきたい。