怒ることは不毛か?いや、怒りたい
怒りについて、モヤモヤしている。
若い頃(20代の頃)に比べて、
怒る、ということが減った。
怒ると、疲れるし
あまり自分にいいことがない、
そんなふうなことを聞いたり、読んだり。
確かにその通りだと思うし
つまらないことでいちいち怒っていては身が持たない。
第一、
私一人が怒っても、社会は変わらないしね、
人の心は変えられないしな。
怒るって損。
だから流そ。
沸いた怒りを、怒り、と名づける前に
無意識に消火活動に努めるようになった。
しかし、
世界の内戦の映像や、
ミャンマーの抗議活動、
北朝鮮の拉致被害者家族のインタビュー、
沖縄、辺野古の新基地建設問題に反対する住民、
コロナにかかって大変な目にあった家族たち、
真剣に怒る人々の映像が流れる度に
心に何かが、コツン、と当たる。
彼らは怒っている。
怒りをきちんと表している。
届くとか、届かない、じゃない。
理不尽に、不合理に、
おかしいじゃないか!
と全身で怒り、
時には泣きながら
怒りを表現する彼らは、
人間だ!と全身で叫んでいるようだ。
私は怒ること、何もなくていいのか?
本当は、あるんじゃないか?
丸め込まれてやしないか?
安易に流していないか?
幸せなことなのかもしれない。
だのに、不安だ。
怒らない自分が。怒りを回避する自分が。
大きなものに、うまく飼い慣らされているような
不気味さを感じる。
かつては、あった。
私にも怒りが、日常に。
エッジが効いている、と友達の彼から言われていた頃。
こんな言葉を吐く、人を傷つける大人になるもんか!
今、私を見下してる奴にギャフンと言わせたい
貧困に喘ぐ人を見て、
自分とは違う世界だと、言い切れる人にやたらとムカついていた
自己責任って超冷たい言葉じゃないか。
知ったような大人の口調が一番腹が立つ。
怒りの矛先は間違っていたかもしれないが、
少なくとも、
疲れるから、
何も変わらないからという理由で
怒りを収めたりはしなかった
あの頃の私は、
手の届かないものにも、
真剣に怒っていた。
夜な夜な泣いていた。
あの苦しい夜の連続が
何やら、懐かしい。
怒りたい、というんではなく、
怒りという感情を持つことを
悪い、と無意識に思ってしまうことを
止めよう。
誰かに植え付けられた価値観。
処世術、という大人の術を覚えて
小狡く小さくなったのだ。
怒るってことは
パワーだ。
そのエネルギーの持っていき方次第では
すごいプラスに働く。
蔑まれた相手を見返してやろう!
じゃなくて、
決して、蔑まない人間になろう、と。
若者を今どき、なんて一括りにしないでおこう、と。
怒りの感情が沸いたら、
怒りの発信元の特定個人ではなく、
怒りの発信源に向け、
何に対しての怒りなのか分析する。
それを解決する手段として
言論を使う。
怒りを消化するんじゃなく
昇華できるように。
やり方なんてまだわからないけれど。
大きな怒りや大きな悲しみを抱えていればいるほど
大きな喜びを創造できると思うから。
怒り、の感情は大切にしていきたい。
その時、私は怒った、という事実を忘れないでおきたい。
怒るということを、
恐れずに、面倒くさがらずにいたい。
人にぶつかられたから、
『おいコラ!』ってなるのとは違うのよん。
ただ、もっと泥臭く生きようぜってこと。