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たりなさから生まれるなら

もうすぐ大事な面接がある。だから想定できる質問を考えて、それに対する自分なりの答えを用意しておこうと思っていた。それが僕の想定していた今日、休日の過ごし方だった。だが想定外に、だが情熱はあるに対して思っていること今書きたいと思った。それが根底にある自分であり、隠せない自分であり、面接でも見抜かれるであろう自分であると思ったからだ。

たりないふたりに憧れていたというよりは自分もたりてない側の人間だと思ってTwitterのユーザー名にtarinaihitoriと頭に付けた。社交性が足りない、自尊心が足りない、余裕もない、本当の優しさも幸せも知らない。だから人は僕に寄ってこない。悲しいユーザー名だと思う。でもそうだと思っていた。

若林正恭も山里亮太もたりないからこそ、ここまで来れたのかもしれない。たりなさから生まれた醜い感情がたくさん露わになっていたけれども、そこから生まれた美しさがあったことに気付いた。たりないことを彼らが救ってくれた。だが、そこには情熱があって、たりようとする努力があるからこそ生まれるものだ。

彼らの人生に励まされるのは、そこが大きい。何ものでもないものから、たりないって最高、たりないって万歳と言われたって何も響かない。別に結果が全てではないけれど、彼らの情熱ある半生がたりないことを楽にしてくれて、エンジンに変えてくれた。

何ものでもない僕のこの文章は、ただのたりないひとりが書いた文章だから誰にも響かない。だからこのたりなさを情熱に変えて生きるしかない。

いつか僕の半生を知っている人から、君の言葉は信頼できるって言われたい。

それがたりなさゆえに成り立つなら、人間も人生も悪くない。

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