
晴耕雨読
今日はこれでもかというくらい美しい夕陽だった。
やっと雨が降った。
寒い雨は好きではないけれど、
なぜか雨の日はとても落ち着く。
逆に晴れていると落ち着かない。
仕事をしていても
遊んでいても
ドキドキして落ち着かない。
今朝みたいな空や温度はロンドンの長い冬そのもので、
自分の古く慣れ親しんだ自分のセルフイメージにしっくりして落ち着くのだ。
旅行先もラテンの国よりじめっとした国のほうが落ち着く。
ラテンに陽気なふりはできるが、
表情だけでなく細胞全体が引きつっているような感じがばれてそうで落ち着かない。
飲みに行くのも大人数でわいわいも楽しいけれど、
一定時間過ぎると自分の中に温度差を感じ始める。
二人や少人数で語らうほうが落ち着く。
と、思ってた。
先日自分と性格がよく似ている(と思っていた)友人と話していて、
むちゃくちゃ怒られた。
「いつも悩んでる、困ってる、って言ってるけど、
全然見えないんだけど!」
え、自分では、いつもこんなんでごめんなさい。
こんな暗い自分に付き合ってもらってごめんなさい、って思ってる、
と言うと、
むちゃくちゃ笑われた。
「すごい明るい!明るくて全然悩んでるように見えない!」
えー。。
うーれーしーいー。。。!
でも昔はそう言われると、
私はこんなに悩んでいるのにわかってくれてない、
と思ってた。
けれどもこの数年、
周りのそんな言葉や存在が、
ずーっと握りしめてきた「私」を溶かし、
思いもかけない、
だけれども実はずっとそこにあった「本来の私」を見せてくれ、
少しずつ受け取れるようになる体験をたくさんしてきた。
人が見えないものをわざわざ握りしめ続けているのはなぜだろう。
手放したいと思いながら自ら手放さないのはなぜなんだろう。
そもそもその手の中に握りしめてるつもりのものは実際に今もあるの?
観たかった、欲しかったその美しく輝く太陽は、
見えてても見えてなくても、
ずっとそこにある。
あるのにないと言い張りたいのはなぜ?
自分にふさわしいと思うものしか見えないし、
現れない。
自分が見たいものを見れるし、現すことができる。
太陽がもうすぐ沈むけれど、
地球の裏側を照らしたのち、
また新しい朝を照らしてくれることを知っているだけで、
このきゅっと結んだ手をほどくことができる。
そしてその手ですべてを抱きしめることもできる。
晴れても雨でも今その時にしかできないこと、できることを歓んでいたい。