あいうえおエッセイ 「い」きると感じる
「わたし、生きるのに向いてない」
そんなことを、言ったことがある。
今、それを振りかえって思うのは、
生きるのに向いてるか向いてないか、は大事じゃなくて、「生きるのに向いていない」といってしまうくらいには、何かがつらかったんだろうということだ。
そのときのわたしは、でもご飯たべれてるし、眠れてるし、笑うときは笑うし。べつに、不備なんてどこにもないはずだ、と思っていた。
そんなことないのに。
物質的に豊かであれば、こころの問題はたいしたことない、そう思っていた。
そんなことないのに。
知っていたのに、当時、自分にはそう思えなかった。
だから、
いまでは、生きることってこころの中にある、うれしい、たのしい、腹立つ、痛い、悲しい、さびしい、をきちんと感じることだと、きづくことだと、無視しないことだと個人的にはおもう。
こころは見えない、わからない。表現できにくくて、全体像もみえにくくて、人と比較もできない、大きさも広さも高さも色も、何もかもわからない。
だから、感じる。
感じたことを無視しないで、感じたことをとりあげて気づいて、そうしたらいくらでも変わっていける、と信じたい。
自分のなかの自分は、今ワクワクしているだろうか。ひどく文句をいってないだろうか。泣き叫んでは、いないだろうか。
体にあてる聴診器があるように、だれでも使えてこころにあてれる聴診器があればいいと思う。
そんなことを考えながら、今日もわたしは自分を感じてみたい、今日もわたしは自分を生きてみたい。
いつか、さようならを言うそのときまで。
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