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「母親」であるということ。
世間で言う「母親」じゃなくて、
「息子を生んだ張本人」という意味での、母親。
巷で言われる「母親」には、興味がない。
巷で言われるそれは、多分、きちんとした料理を作ってあげることとか、ニコニコしてることだとか、外遊びに連れて行くとか、教育とか、なんか、そんなようなことをする人のことかな?と思う。
普段私は、息子のことが好きで、彼にもっと元気いっぱい遊んでほしい、学んでほしい、って思う。ただ思う。
そういう気持ちが湧くから、
ご飯食べよう、水分とろう、歯磨きしよう、遊びに行こう が勝手に出てくるだけで、
だから それをする。
でも、ただそれだけ。
いざそれを改めて意識して「やってみよう」となると、わからないし、たぶん、出来ないし、やっても続かない。
だから、
ということは、
私が思ってすることはすべて、彼にとっての「母親」像となるんじゃないか、ということ。
となると本来、
母親はこうあるべきだ
こうでなければならない
なんてことは何一つもないはずで。
誰だって自分の母親、という存在が丸々自分の「母親像」になるのだから。
そして100人の母親が居たら、誰一人として同じ人はいない。
100人の子どもの受け取り方、認識の仕方も、100通り、ある。
だから例え同じ言葉でそれを語ったとしても、
誰の言葉も自分と全く同じ意味になることはない。
だから安心して、ズレていられる。
正しいもの、なんてほんとはその人の中にしかないのだから。
それは母親像だけじゃなくて
すべてにおいても言えることだと思う。
「母親」
「父親」
「こども」
「先生」
など、社会にはたくさんの枠組みがある。
もし誰かが作った枠組みの中に居るとしたら、
それはそれは窮屈だろう。
だからその度に、気づいて外せばいい。
所詮その枠組みは「誰か」のもので「私のものではない」と。
ただ生きていて、それは何だ、どうだ、と周りに言われるかもしれない。
けれどもそれは、その人が思うこと。
それを枠組みだとか、役割だとか、そう認識するのは受け取り側の人間の意識でもあるのだから。
だから安心して生きていたらいい。
安心して、生きよう。
マツダレイナ