長編小説「きみがくれた」上‐➁
「口癖」
楓の森にはメイプル通りというメインの大通りがあって、亮介と冴子の花屋はこの道沿いにある。
遠くからでもひと際大きく見える楓の木が目印で、通りを挟んで向かい側にある真っ赤な屋根が「アネモネ」。
亮介は“この木が気に入って”ここに店を建てることにした。
楓の木の下から店頭の様子を伺うと、亮介がトラックから細長い段ボールの箱をいくつも下に降ろしているところだった。
店の中では相変わらず冴子が忙しそうに動き回っている。
この時間なら美空はもうここにはいない。
「アネモネ」が開店した時、霧島とマーヤは中学三年生だった。
二人は夏休みの間中、その準備を“強制的に手伝わされた”。
“中3の夏休みナメんな”と“断固拒否”していた霧島を、亮介は鼻で笑った。
亮介に言わせれば、霧島は“勉強道具もロクに触んねえガキ”だった。
そして“おまえにはこっちのがよっぽどいい勉強になるだろ”とか“どうせ試験勉強なんかしねぇんだからせめて人の役に立っとけ”とか“もっともらしいこと”を言っていた。
亮介にしてみれば“そもそもこいつらの志望動機自体が完全にナメてる”し、けれど“おまえらみたいな秀才が考えそうなこと”でもあった。
“この夏をどう過ごしたところでおまえがどうこうなるとは思えない”し、 “四の五の言わずに手伝やいい”という主張を崩す気は“毛頭ない”と頑なに曲げなかった。
霧島は亮介の主張に反論する方が疲れると言い、それに対してもう何も言う気も“失せた”。
マーヤはこの二人の昔から“全く相容れない”やり取りを眺めながら、いつものように横でくつくつ笑っていた。
店の入り口に立つと、あの匂いに出会った。
脇に植えられている植物の匂い。
今年も紫色の花が揺れている。
この花は、ばあちゃんの庭にもあった。
どこか懐かしい、大好きな香り。
遠く、優しい、温かな記憶―――。
「よお、久しぶりだな」
見上げると、細長い箱がいくつも重なった向こう側から亮介の顔が覗いていた。
「おまえほんとそこ好きだな」
亮介はそう言うと肩に載せた箱をまとめて店の扉の手前に降ろした。
「これから朝メシなんだ、寄ってけよ」
トラックの荷台の扉を勢いよく閉め、亮介は店の中に向かって「メシにする」と叫んだ。
よく通る大きな声はホースから水を出して“オケ”に水を溜めている冴子の耳にも届き、亮介は店の裏へ歩いて行った。
冴子の“仕事”は“まるで機械みたいに速くて正確” 。
マーヤはそう感心していた。
“あの細腕で”“意外とパワフル”な冴子の作業は、“一つの無駄もなく”“魔法がかかったように”あっという間に“完成する”。
長細い箱に入っているのは“切り花”だとマーヤは教えてくれた。
市場から買ってきたものを、店で売るために“水揚げ”をする。
冴子はいくつかの箱の中から切り花を取り出すと、それらを両手で抱え店内の作業台へ運んでいく。
亮介が置いて行った箱の中身は見る見るうちに空になり、取り出された切り花は次々と作業台の上で束ねた紐ごとその茎の先を折り取られていく。
余分な葉は勢いよくそぎ落とされて、冴子の足元に積もっていく。
床の上に並べられたたくさんの“オケ”は、すぐに切り花でいっぱいになった。
“細くて小柄”な冴子が仕事中に見せる“意外な力強さ”と“タフさ”をマーヤは興味深げに見つめていた。
冴子の造るブーケは “繊細な花や色の組み合わせ”で“この世にたったひとつしかない”。
そんな冴子の“センス”と“才能”を、マーヤはとても“尊敬”していた。
アネモネの裏に行ってみると、亮介が“ウッドデッキ”に座っていた。
この裏庭は亮介の“唯一の憩いの場”で、“ウッドデッキ”は亮介の手造り――もちろん霧島とマーヤも手伝わされた。亮介は“俺の”自慢のウッドデッキだと言っている――目線の先には“最高に癒し系の花壇”があった。
それは“レンガのひとつひとつにこだわった”亮介の“渾身の力作”であり、“花言葉を調べ上げて選び抜いた花”が植わっている。
その花壇を囲うように芝生が敷いてある。
この芝生は“8年前の夏”に行われた“移植プロジェクト”の時、マスターの店の中庭からもってきたものだった。
ここは今では“美空のお気に入りの場所”にもなっている。
亮介は大きな手に余るおにぎりを頬張り、もう片方の手で大きなペットボトルを掴んだ。
「このとこの雨で花が全部ぺしゃんこになった」
そうぼやいてから、
けど昨日の晩はいい月だった、昨夜はここで春の月見をしたと話した。
「あのどしゃぶりのお陰でクレーターまで見えそうな鮮明さだったぜ」
亮介はペットボトルを口に運び、満足げに空を見上げた。
マーヤに言わせれば亮介は“とっても物知り” で、特に月や星や宇宙の話が大好きだから“いつもいろんなことをすっごく詳しく教えてくれて”“説明がすごくわかりやすい”から“ずっと聞いていたくなる”。
“亮介さんの話を聞いた日の夜はワクワクが止まらなくて眠れなくなるんだ”とマーヤは言っていた。
けれど”何につけても”“独特の自論”が“延々続く”亮介の言葉はいつも難しい。
霧島に言わせればそのどれもが“どうでもいい”ことで、聞いたことは“ほとんど何も覚えていない”。
亮介に教えてもらったことで唯一覚えているのは、この街の――深森の地区の名前と、“メイン通り”の名前の由来くらいだった。
“深森の各地区の名前はその辺り一帯の植生が関わってるんだぜ”
と得意げに切り出した亮介に、けれど霧島はやはり“どうでもいい”と断ち切った。
“おまえなぁ、そうやってスカしてっけどこの話聞いたら驚くぞ?
“薄紅通りの名前の由来知ったら感動するぞ?”
そう霧島の興味を引こうとする亮介に、マーヤは隣でくつくつ笑っていた。
そしてそっぽを向いている霧島をよそに、“僕の家がある欅の森は?”とか“ばばちゃん家がある‘椴の森’は?”とか何でも聞きたがり、“もっと教えて”とあのくるりと丸い大きな瞳をいっそう大きく輝かせていた。
「今年で6年…か―――」
ペットボトルを脇に置いて、亮介は、ため息混じりに視線を上げた。
「あーあ」
亮介は口元にごはん粒をくっつけたまま、ぼんやり空を眺めている。
「あいつ…早く帰って来ねぇかなぁ」
いつの頃からか、これが亮介の口癖になった。
亮介はもうずっと、長く、深く傷ついている。
あの大雪の日の出来事を、亮介は今でも酷く後悔している。
あの日、この街を――深森の地を出て行く霧島を止められなかったこと。
行き先を尋ねることさえままならなかったこと。
何をしに行くのか、いつ帰ってくるのか、触れることすらできなかったこと。
そもそも帰ってくるつもりがあるのかどうかも――。
あの時の亮介は、霧島に“大事なことは何一つ聞けなかった”。
“心臓がさ、こう、ぎゅうぅぅぅっっと握られたままブルブル震えてるみたいな感じだったんだ”
そう話す亮介にとって、“あの日の一連の出来事”は“根深いトラウマ”になっていた。
「けどあいつは俺と約束したんだ」
亮介は2つ目のおにぎりの最後の一口を飲み込んで、真っすぐに前を見据えた。
「あいつは約束は守る男だ」
あの日、霧島と最後に交わした約束―――それだけが亮介の心の支えになっていた。
ペットボトルの中身を半分まで減らし、亮介は立ち上がった。
そして両腕を上に思いきり伸ばしながら、
「早く帰って来ねぇかなぁ」
そう繰り返した。
「今頃どこで何をしているのやら」
朝食後の軽い“ストレッチ”をしてから、亮介は足早に店へと戻って行った。
あの日、店の中で霧島と普段通りの会話をする余裕もなかった亮介が、やっとの思いで漕ぎつけた“約束”。
降りしきる雪の中へ消えていく後ろ姿――。
亮介も、もうずっと長い間霧島の帰りを待っている。