長編小説「きみがくれた」中‐㊷
「伝言」
マーヤがこの街を出てからずっとアパートに“放置”されていたりんごの木は、“枯死寸前”だった。
それを亮介が“救出”し、“なんとか復活させた”。
霧島がそのことを聞かされたのは、つい数日前のことだった。
電話口で素直に「ありがとう」と言った霧島を、亮介は“不安しかねぇ”とマスターに話していた。
あいつが俺に「ありがとう」だって。
「地植えにするなら本格的に寒くなる前がいい」
亮介にそう言われ、あの日霧島は月見山を降りたその足でアネモネに寄った。
店内では冴子が束ねた花材を片手にお客さんと話し込んでいた。
端の作業台で亮介が受話器を肩に挟んだまま分厚い本をめくり、何か書き物をしているのが見える。
霧島は珍しく冴子の目に躊躇なく店の前へ進んだ。
「どうしたの?」
冴子が真っ先に気が付き、慌てて店の外へ出て来た。
「亮介に、あとでアパートに来てって言っといて」
普段から冴子と関わることを極端に避けている霧島が、この日は“普通だった”。
けれどそれ以上はもう何の用もないとでも言うように冴子に背を向け、返事の言葉も待たずにその場から立ち去った。
「ちょっと!」
冴子は開いた口をそのままに、霧島を見送るしかなかった。
いつもならこの霧島の“素っ気なさすぎる態度”に延々文句を言いそうな冴子が、この時はそれさえもできない様子だった。
日がすっかり傾いて、夕暮れの空にぽつぽつと星が見え始めた。
今にも壊れそうな錆びた階段の途中に腰を下ろし、霧島はもうずっとここにいる。
その足元に身を寄せて、眠気と冷たい寒さの間を彷徨っていた。
アパートへ続く通りの彼方に車の音が聴こえ、ようやく見覚えのあるミニキャブが現れた。
亮介は適当に車を停めると、降りてきて階段の上の霧島を見上げた。
「どうした?」
冴子と同じ言葉でそう問い掛けると、亮介は怪訝な顔をした。
その時霧島のお腹がキュルキュルと音を立てた。
「おまえ、まさかとは思うが朝からずっとここに居たのか?」
おまえならやりかねねぇ。
この寒空の下何やってんだよ。
「とりあえずそんなとこ居ねぇでとっとと降りて来いよ」
亮介はそう手招きをして
「あり得ねぇことがあり得るのがおまえだよな」と呆れた。
「時間も決めねぇでここに来いってだけでおまえ‥俺のスケジュールとかさ、今日なんかめっちゃクソ予定詰まっててこんな時間になっちまったけど、おまえがまだここにいるかどうかも分かんねえけどいちお来たんだぜ?」
霧島はそんな亮介の訴えには耳も貸さず、平然と階段を降りるとミニキャブへと向かった。
「なんだよ?」
無言で車の中を覗く霧島に亮介は不審な表情で振り返る。
今度は車の後ろへ回り、霧島はドアを開け、中を覗いた。
「りんごは?」
「は?」
「りんごなんて積んでねぇよ」
霧島はしばらく黙ったまま車の中を見つめ、それからあのりんごの木を地植えにすると亮介に言った。
「はぁ?これから?おまえ今何時だと思ってんの?つかマスターにこのこと話してあるのか?この時間だともう帰ってなきゃおかしいだろ。マスター夕飯作って待ってんぞ。」
霧島は亮介の言葉に耳を貸す気も変える気もなさそうだった。
「おまえさぁ、つかもっと前もって言っとけよそういうのは。やるならもっと明るいうちにやろうぜ。少なくともここにりんごを持って来て欲しかったなら冴子に言っとけよ。ただここに来いって伝言だけで分かるかよ。」
「俺はおまえが来いっつうから来た、それ以上のことは言われなきゃわかんねぇよ」
亮介の訴えに霧島は口をつぐんだままだった。
「なんなのおまえ?どうしたんだよ」
「なんでいきなりりんご‥」
亮介は怪訝な表情を崩さないまま霧島に尋ね、けれど霧島は淡々と話を進めていく。
「―――そこ」
アパートの敷地の隅を指さし、霧島はこう言った。
「そこの真ん中に植えることになったんだ」
「‥?」
亮介は霧島の“いつになく一方的な態度”に戸惑っていた。
この夜の霧島は“何かに突き動かされているようだった”。
けれど霧島はそんな亮介を気にも留めず、“その場所”を見つめていた。
“いいこと思いついた!”
“そこにしよう!”
“ここの真ん中”
“種を蒔いたとこ”
“りんごの木の周りにばばちゃんのスミレが満開に咲くんだ”
無言でその一点を見つめる霧島に、亮介は大きく一回手を打った。
「よし、分かった。」
何かを吹っ切るようにそう言うと、亮介は霧島の肩を数回叩いた。
「分かったよ、取って来る。ちょっと待ってろ。」
亮介は車に乗り込むと、大きくエンジン音を鳴らした。
「ここに居ろよ?どこも行くんじゃねぇぞ?」
亮介はそう念を押してから勢いよく車の向きを変えると、轟音を響かせ今来た道を引き返した。
“春になったら”
“ね、いいアイデアでしょう?”
亮介のミニキャブのエンジン音は夜の山道へ消えていった。