長編小説「きみがくれた」下ー㉔
「巡る想い」
乾いた涼しい風が吹き始める頃、霧島は荷物をまとめた。
朝、外へ出るとスロープの先に真っ赤なミニキャブが留まっていた。
霧島は門扉の前で立ち止まり、けれど無言で車の横を通り過ぎようとした。
「駅まで送ってやる」
運転席から顔を出した亮介が霧島を呼び止めた。
「‥なんで」
「うるせぇな。そういうのもういいから、さっさと乗れ。」
無言で亮介を見返す霧島に、後ろからマスターの笑い声が飛んだ。
「お言葉に甘えて送ってもらったら」
マスターは霧島の肩に手を乗せ、ギターケースごと亮介の車へ促した。
「亮介君、頼むよ」
「オッケー、おら乗れ。」
後部座席のドアを開け、霧島はギターケースとナップザックを乗せた。
振り返る霧島に、マスターは小さく頷いた。
◆
昨日の夜、夕食は霧島の大好きな野菜カレーと、デザートはもちろん手作りのプリンだった。
「俺はおまえがいなくても大丈夫だよ」
マスターはグラスに注いだりんごジュースを差し出し、そう微笑んだ。
霧島がずっとこの街に居られないことは、マスターにも分かっていた。
「この2年半、一度もどこへも行かず、ここに居てくれた。来年の春にはまた帰って来るって決めてくれた。それでもう十分だよ。」
マスターの励ますようなその言葉に、けれど霧島は硬い表情を崩さなかった。
「だから、そんな表情(かお)しなくていい。」
テーブルの上の食器を手に、マスターはキッチンへ入った。
霧島は目の前に並んだりんごジュースとプリンを見つめたまま、口をつぐんだ。
洗い物をする水の音が聴こえてくると、霧島はキッチンへ目を向けた。
「―――俺は‥何ができるかな――‥」
「うん?」
マスターは蛇口を閉じてこちらへ顔を向けた。
「なんだ?」
じっと見つめる霧島の瞳に、マスターはタオルで濡れた手を拭いた。
「――――――‥‥」
霧島は再びテーブルの上に視線を落とした。
「―――俺は‥マスターに何ができるのかな――‥何を返せるのかな―――」
マスターは手にタオル持ったままこちらへ戻ってきた。
そして俯いたままの霧島の前に腰を下ろした。
「―――俺、マスターがいなかったら今頃どうなってたか分からない」
顔を上げた真っ直ぐな瞳に、マスターの表情も神妙になる。
「どうした、また改まって」
“私が央人の後継人になります”
「――――‥‥」
“私は央人を誰にも渡すつもりはありません”
マスターは正面から霧島と向き合った。
「なぁ、央人。俺は、――恐らく亮介君や冴子ちゃんも―――皆、おまえに何かをしてほしいなんて思っていないよ。」
そう言って笑みを見せたマスターはどこか寂しげに見えた。
「みんな、おまえが自由に、自分の思う通りの人生を歩み、そして誰よりも幸せでいることを願っている。俺たちにとってそれが何よりうれしいことなんだ。」
マスターを見つめるその瞳は、けれど何か言いたそうだった。
「俺はおまえがどこにいても、何をしていても、いつだって、どこからだって、おまえのことを応援している。何があっても、おまえの味方でいる。この気持ちは、おまえに何かを返して欲しいからではないよ。」
マスターはそう言うと穏やかな眼差しで霧島を見つめた。
「俺たちはおまえの家族だ。友人だ。俺たちは、ただおまえを愛している。それだけだよ。」
ふわりと緩めたその頬に、霧島は僅かに眉根を寄せた。
“大きくなったな”
“もう16歳か”
「―――けど‥――――俺は――――‥‥」
“この先の人生を棒に振る気か”
“あの子供に何かしらの価値があるというのかね”
“俺はおまえがいなくても大丈夫だよ”
「俺は――‥マスターにも幸せになって欲しい。」
霧島の言葉にマスターは少し驚いたようだった。
「俺は幸せだよ」
マスターはそう言ってにっこり笑った。
「でも‥俺を引き取ったせいでマスターは‥」
霧島はそう言いかけて口をつぐんだ。
「央人‥人に感謝する気持ちは、もちろんとても大切なことだよ。誰に対しても、何に対しても、常に感謝の心をもっているほうがいい。だが、その想いを形にして相手に返すことだけが全てとは限らない、俺はそう思う。」
マスターはテーブルの上で両手を組んだ。
「感謝の気持ちは、巡るんだよ。」
「―――‥‥」
「誰かにもらった親切を、その時心に想った感謝の気持ちを、必ずしももらった相手に返さなくたっていいんだ。他の誰かに返したっていい。そうやって、感謝の気持ちは人から人へ繋がっていく。そして必ず、また自分の元へと還って来る。―――人の想いって、そういうものだよ。」
霧島はけれど納何か言いたそうな様子だった。
「心配しなくても、おまえの気持ちは、―――言葉にできない想いが‥おまえの胸の中にたくさんあることは、ちゃんと分かってるから。」
“あいつは分かっていたよ”
“おまえが自分のことを大好きだって、ちゃんと分かってたんだ”
「それでも、おまえが何かしたいって思うのだとしたら――これからは自分の気持ちを少しでも言葉にすることをしてみたらいいんじゃないか。」
“おまえは夏目に何もしてやれなかったんじゃない”
“伝えたい気持ちがあった”
“ちゃんと伝えてこれなかった”
「内側に秘めているものを、なるべく少しずつ表に出して、相手に伝えていく‥きっとおまえは言葉の大切さも恐ろしさもよく分かっているから、だからこそ、言葉で伝えることはおまえにとっては難しいことかもしれないが――」
「相手が誰であれ、自分の気持ちを言葉にして人に伝えるということは、その想いを相手に返すということにも繋がると思うよ。」
“何もしてやれなかったんじゃねぇ”
“おまえが、しなかったんだ”
「おまえがそうして言葉で伝えた心が、誰かの心に届く。形にしなくたって、それで十分伝わる。――返せなかった想いは、別の誰かに渡すことで巡らせていったらいい。そんな考え方も、あっていいんじゃないかな。」
「―――――‥‥‥」
“俺は聖から逃げたんだ”
“私が央人の後継人になります”
“私は央人を誰にも渡すつもりはありません”
「央人。15年前のあの日から、俺の全部はおまえのためにあると思っている。俺はおまえがうれしいことをうれしいと、楽しいことを楽しいと、心から思い、感じて、自分が信じる方向へ、幸せだと思う方へ、生きたいところへ思う通りに進んで欲しいと思っている。それが俺自身の喜びであり、幸せでもあり、そして一番の願いだ。」
それに―――
きっと、それは、夏目君の願いでもある。
“大丈夫だよ”
“霧島なら何にでもなれるよ”
「それに、聖も、志緒ちゃんも――」
“自由に生きて欲しかった”
“どこへ行ってもよかったんだ”
“自分の好きな場所へ、どこへでも”
この数年で髪の色がほとんど白に変わったマスター。
目尻の皺に涙がうっすら滲んでいる。
「俺は――マスターがいなかったら―――――」
霧島は袖口で目元を拭った。
“私は央人を誰にも渡すつもりはありません”
“私が知っていることは、あなたが央人に何の係わりもない人間だということだけですよ”
霧島の瞳に溢れた涙が、次々と頬を伝っていく。
“君はこの先どうしたい?”
“僕は君が望む通りにしたいと思っている”
「マスターがいなかったら―――。」
“俺は――マーヤと離れたくない”
「全部―――マスターのお陰だよ――なのに―――俺は―――‥‥」
「大丈夫だって言ったろう。」
「離れていたって、俺はいつだっておまえを想っているから。」
涙に濡れる霧島を見つめ、マスターは少し困ったような笑みを浮かべた。
「俺は―――‥俺はマスターに何を返せる―――?」
霧島はそれでもマスターに問い続けた。
自分には何ができるのか。
自分は何を返せばいいのか。
「何もいらない。ただ、生きていてくれたらいい。」
“俺はあいつに―――”
「願わくば元気で。欲をいえば、世界一、幸せであって欲しい。」
マスターはそう言ってにっこり笑った。
“俺はあいつに、生きていてほしかった”
「親っていうのはエゴイストなものなんだ。誰だって自分の子供が一番かわいい。誰だって自分の子供が誰よりも幸せになって欲しいと願っている。」
「――――――‥‥‥」
マスターの言葉に、溢れる涙がいくつも霧島の頬を流れる。
「央人。でもね、自分を幸せにできるのは、本当は自分だけなんだよ。だから俺は、おまえにお願いしたい。」
「霧島央人を、幸せにしてやってくれ。――幸せになってもいいと思わせてやってくれ。どうか、自分が一番望む幸せな人生へ、導いてやってくれ。そして自分の幸せが、他の誰かの幸せに繋がっていることを教えてやって欲しい。」
「おまえには幸せを受け取れる人になって欲しい。自分を大切にして‥――愛されていると実感して‥そんな自分自身を、心から愛せるようになって欲しい。」
“愛されることに慣れなさい”
“そのためにあなたはまず自分自身を愛してあげて”
「正直、淋しくないとは言ってやれないし、心配していないとも言えないが‥」
“待たせていることを重荷には感じさせたくない”
「半年くらいどうってことないさ。むしろ――‥ここに居るだけで、おまえには辛い思いをさせているよな――‥」
“央人にとってこの街が夏目君がいない街ではなく”
“僕らがいる街になるといい”
「何よりも、おまえが心地よい方を選んで欲しい。」
「―――ごめん‥―――」
「謝ることはないよ。また会える約束がある、それで十分だ。今度は前と違って、安心して待たせてもらえるんだから。」
「―――ありがとう央人。また帰って来ると言ってくれて。」
霧島は袖全部で顔を拭いた。
マスターは苦笑しながらそばにあったティッシュを霧島に差し出した。
「―――マスターだって‥幸せになって欲しい――俺のせいで‥マスターの人生が――」
霧島はティッシュを数枚引き出しながら、涙声で訴えた。
「俺は十分幸せだよ。」
「おまえがいるから、俺はこんなにも幸せなんだ。」
「でも‥マスターにも、マスターの人生を‥歩んで欲しい――‥‥」
“俺の全部はおまえのものだから”
「これが俺の人生だよ。」
マスターはそうにっこり笑った。
「おまえも大人びたことを言うようになったな‥」
うれしそうに微笑むマスターに、霧島は絞るようにこう言った。
「――…大人だよ、俺もう――父さんより年上になったんだから――。」
「―――‥そうか‥―――そうだな――‥‥」
マスターは涙が止まらない霧島の頭に手を乗せた。
「しかし‥泣き虫なのは相変わらずだがな‥」
そう笑みを浮かべたマスターの声は、どこかうれしそうに優しく響いた。
「マスター‥」
「―――うん?」
「―――――ありがとう‥――――――」
霧島は涙で真っ赤になった顔を上げ、真っすぐにマスターの目を見つめた。
「――――あぁ、わかってる」
恩なんて感じなくていい。
俺がおまえと一緒にいたかったんだ。
「俺が選んだんだ、おまえを」
霧島はテーブルの上に顔を伏せて泣いた。
その夜遅く、霧島は黒いナップザックにほんの僅かな荷物を詰めた。
それと最後に茶色く膨らんだ紙袋をひとつ、丁寧に納めた。
乾いた風が窓から吹き込み、白いカーテンを静かに揺らした。
涼しい空気が心地よい夜だった。
青黒い澄んだ空には、金色の丸い月が輝いていた。
「気を付けて行っておいで。」
「―――行ってきます。」
そう言うと、霧島は口の端で薄く笑った。