長編小説「きみがくれた」上ー⑲#7
「愛の記憶」
いつの間にか、霧島は自分の手でアルバムのページをめくっていた。
その写真の1枚1枚を、霧島はゆっくりと、そして丁寧に見つめていた。
そこに写りこんだ様々な物、光、風景、そして、流れていた時間。
会ったこともない“父”にまつわる、記憶の数々――。
そして次のページを開いた瞬間、霧島は息をのんだ。
一枚だけ貼られていたその写真には、どこか見覚えのある景色があった。
「―――――・・・」
そこには全部で4人の人物が写っていた。
真ん中の二人はベンチに座り、その両隣に一人ずつ立っている。
霧島は写真に顔を近づけた。
「これは結婚式の日の写真だよ」
マスターはふわりと笑みをこぼした。
「この人が志緒ちゃん、君のお母さんだ」
「――――――‥‥‥‥」
マスターが指した中央の黒いベンチに座るその女性は、白い長い服を着ている。
茶色い髪に白い頬。
「この人は誰だかわかるかい?」
再び固まった霧島を見守りながら、マスターはベンチの側に立つ女性を指さした。
「絹子さんだよ」
全然知らないばあちゃんの顔を見て、霧島は拍子抜けしたようだった。
「そして、こっちが僕――さすがに若いなぁ」
マスターは少し笑って、
「この時僕はまだ20代半ばだった」
とつぶやいた。
もう、17、18年くらい前になるか――――
そう小さく息をついたマスターは、どこか疲れているように見えた。
「――――――‥‥‥」
“結婚式”の写真を前に言葉もない霧島に、マスターはゆっくりと当時の話しを始めた。
「志緒ちゃんはこの頃20歳そこそこだったと思うけど、実際はもっと若く見えたよ‥初めて会った時はとても印象的でね――そのイメージはその後も変わらず、少女のように無垢で、可憐な女性だった」
本当に、お人形さんみたいだろう、と言って、マスターは懐かしそうな笑みを浮かべた。
この白いドレスは絹子さんの手作りでね、デザインを志緒ちゃんと一緒に考えたんだって…この髪にかけているレースのベールも、絹子さんが編んだものなんだ。
見せてもらった時は感動したよ‥とても複雑な、手の込んだモチーフだった。
細いシルクの糸で美しい模様を丁寧に編み上げた力作だった。
大きさにすると、だいたいテーブルクロスくらいの――
それから思いついたようにマスターは別の写真を指さすと、「これはウェディングケーキ」と小さくつぶやいた。
前日に徹夜で作った、“5号程度”のシフォンケーキ。
「志緒ちゃんが好きな桜色にしたんだよ」
“ホワイトチョコの花びら”をまぶしたその“シンプルな”ケーキを、マスターは満足そうに眺めている。
「二人とも、とても喜んでくれた」
よく見ると4人が写るその写真には、所々に薄ピンク色の花びらが写り込んでいた。
「桜の森公園―――」
沈黙の隙間に霧島の声がぽつりとこぼれた。
「そうだよ、よく分かったね」
マスターは顔を上げ、うれしそうな笑みを浮かべた。
「結婚式は深森の教会で挙げたんだ――知ってるかい、桜の森公園の奥に広がる深森の中に、小さな教会があるんだよ」
「とても古い‥歴史のある木造の建物で、小さな結婚式にはちょうどいいサイズ感でね‥主張しすぎない素朴なステンドグラスが美しい、そこにいるだけで心が安らぐ教会だ」
機会があれば行ってみるといい、と言って、マスターはにっこり笑った。
「さて、それじゃあここからは、君の両親の馴れ初めを話そうか」
マスターはそう言うと体勢を変え、両膝を立てて座り直した。
霧島はマスターにつられるように腰を上げると、同じように座り両手で膝を抱えた。
「桜の森公園は、聖と志緒ちゃんが初めて出会った場所なんだ」
「結婚式をあの教会で挙げることにしたのも、そういうわけで――それに、病院がすぐ近くにある方が安心だからね」
マスターは霧島の表情の変化を気に掛けながら、けれど自慢げに胸を張った。
「二人が出会ったのは、僕のお陰と言っても過言ではないのだよ」
そう鼻を鳴らすマスターとは反対に、霧島はその理由を尋ねることもせず、強張った表情を崩さなかった。
「さて、これは桜の森病院の一室だ」
マスターがページをめくると、そこには窓辺で外を眺める“聖”が写っていた。
「僕のお見舞いに来てくれた時、ベッドの上から撮った一枚だよ」
“お見舞い”という言葉に反応した霧島は、無言でマスターに問い掛けた。
「僕はバイクでケガをして、桜の森に入院していたことがあったんだよ‥思いの外長引いてしまって、手術後のリハビリも大変だったんだけど、これもまた意外なことに聖が時々来てくれてね」
マスターはうれしそうに話を続けた。
僕は足こそ動かないものの、体そのものは元気だったし、毎日暇で暇で仕方なかったんだ。
聖が来てくれても何をするわけでもなし、こんな風にただ外の景色を眺めてるだけ…僕らは時間を持て余していた。
そんなある日、聖が窓の外を見つめたまま、ぽそっと言ったんだ。
“桜が満開だ”って。
僕の病室からは桜の森公園の桜がようく見えたんだ。
“桜が満開だ”
僕もベッドの上から見てみると、その景色は前日とはまるで違っていた。真っ青な空を背景に、淡いピンク色の絨毯が眼下に広がっていて――確かに、聖が口にするだけのことはある――それほど美しい絶景だった。
僕はまだ外出禁止の身だったんだけど、聖に車いすを借りてきてもらって、二人でこっそり病院を抜け出した。
でもね、あまりにも絵に描いたようなお花見シーズン真っ盛りって人だかりに、僕らは公園を目前に足を止めた。
僕は後ろに立つ聖を見上げて、戻ろうか、って言おうとしたんだ。
きっとこいつもあそこへは行きたくないだろうと思ってね。
マスターは静かに目を閉じ、そして声もなく微笑んだ。
「これは、作り話ではないよ」
そう前置きをして、マスターは続けた。
桜の森公園の満開の景色を想像してみて――
豪華絢爛、絵に描いたような満開の桜の森の下――
白い砂地を埋め尽くすほどの人だかり――
「その瞬間、無数に群がる人々の、ごくごく僅かな隙間を繋いで、すぅっ…と細い一筋の道が伸びた」
遥か遠く、その道の先の先に、聖の瞳は一人の女性を捕えていた――
「あの時下から見上げたあいつの表情を、僕は今でも鮮明に覚えている」
その細い長い道は、まるで聖を志緒ちゃんの下へ導くために開かれたように、それから少しずつ横に広がり、人だかりは徐々に2つに分かれていったんだ。
「聖と志緒ちゃんは、その奇跡の道の両端に立ち、まさに運命の出会いを果たしたんだよ」
僕はあの時、その瞬間に立ち会ったんだ。
マスターは誇らしげにそう言って、霧島を見つめうれしそうな笑みを浮かべていた。
「僕にとって志緒ちゃんという女性もまた、言葉では説明しきれない人なんだ」
マスターはそう言って写真に目を落とした。
「見ての通り、かわいらしいとか、美しいとか、言ってしまうのは簡単なんだけど、そんなありきたりの表現では言い尽くせない、人外な魅力を纏った人だったからね」
「これは決して、言い過ぎではないよ」
今度はそう前置きをして、マスターは真っすぐに霧島を見つめた。
「あの日、僕はまるで物語の世界にいるようだったんだ」
マスターはゆっくり息を吐き、それから静かに目を閉じた。
僕が初めて見た志緒ちゃんは、“桜の妖精”そのものだった。
満開の桜の木の下で、粉雪のようにふわりふわり舞い散る花びらに包まれるように佇んでいた。
遠くからでもその清らかなオーラが輝いて見えた。
おとぎ話の中のお姫様か、神話の世界の女神様か――僕はその人並外れた 神秘的な存在感に、すっかり見惚れていたんだ――。
夢の中にいる心地、とでもいうのかな……その何とも言えない愛らしさに、僕は一瞬で心を丸ごと奪われてしまった。
マスターはそこまで話すと、目を開けてくすりと小さく笑った。
「しかし、僕だけはすぐに現実へ引き戻されたんだ」
「直ちにこの場から逃げ出さなくてはならない事態を察してね」
そう肩をすくめるマスターに、霧島は無言で首を傾げた。
「志緒ちゃんの隣に、絹子さんが見えたからだよ」
「‥‥ばあちゃん?」
「うん‥絹子さんが昔桜の森病院で働いていたことは知っているかい?」
「――え?‥‥あ――」
霧島は思い出したように「‥うん」と小さく頷いた。
「絹子さんはね、志緒ちゃんがまだずっと小さい頃からお世話係というか、身の周りのことをお手伝いしていたんだよ」
「でも、もともとは桜の森病院の、外科病棟ってこの辺りでは最先端の医療が終結したすごいところの看護師長まで務めた人なんだ」
霧島は言葉もなく、前髪の隙間からマスターをじっと見つめていた。
あの日も、絹子さんは志緒ちゃんの付き添いで公園まで来ていてね。
一般の入院患者の看護師補助もしていた絹子さんの姿にドッキリしたってわけなんだ。
無断で外出したことを怒られる!ってね。
マスターはそう言って笑った。
僕はすっかり病院に長居していたものだから、絹子さんとも顔なじみどころか結構仲良しになっていてね。
もちろんとてもやさしい看護師さんだったよ。
怒られたことなんか一度もなかった。
時々内緒で自家製のハーブティーなんかももらったりしてね。
結局のところ、絹子さんが僕を叱ることはなかった。
きっと僕と同じように、絹子さんもあの場にいるだけで精一杯だったんだと思う。
僕たちは二人とも、圧倒されていたんだ。
あの時、あの瞬間、聖と志緒ちゃんの間に働いた見えない力に――
瞬時に悟ってしまった本物のご縁の存在感に――。
風がなびくようにこちらを振り向いた志緒ちゃんは、その全身を縁取るように光輝くオーラを纏っていた。
ふわりと上がった栗色の前髪の下に見えた白い額…小さな丸顔に、濡れたように黒い大きな瞳が――透けるように白い肌にくっきりと――まるで宝石のような無垢な瞳は、清らかで美しいものしか見たことがないような、澄んだ眼差し――
「僕は本気で、“天使は存在した”と思った」
マスターは真剣な目つきでそう断言した。
そして“これは決して言い過ぎではないよ”と念を押した。
「本当にどこからどうみても人間離れしていて、僕はあの時、遠慮することも忘れて志緒ちゃんの尋常じゃない造形にじっと見入ってしまったんだ」
長い睫毛に薄紅色のふっくらとした頬、栗色の長いウェーブが光に透けて、ふわりと風に揺れて――
この写真は、あの運命の出会いから数日後。
二人はあっという間に夫婦になったんだ。
それは僕ら全員にとってごくごく当然の成り行きだった。
絹子さんは夜通しベールを編み、僕は仕事終わりに職場のキッチンでウェディングケーキの試作を作りまくった。
笑顔で話すマスターの隣で、霧島はただじっと写真に見入っていた。
「そしてその翌年、君が生まれた」
マスターの穏やかな笑みとは対照的に、霧島はその優しいまなざしを真っ直ぐに見据えていた。
「聖が住んでいたコテージに3人で暮らしていた時期もあったんだよ」
君は小さすぎて覚えていないかもしれないけれど――
「志緒ちゃんの体調が良い時を見計らって、期限付きで退院していた」
「あの家で過ごす二人は、本当に幸せそうだった」
まるで自分のことのように楽しそうに話すマスターに、けれど霧島は硬い表情を崩さなかった。
そして思い詰めたような瞳でこう言った。
「父さんは、母さんの‥病気のことを、知ってたんでしょ‥‥?」
前髪の下から切れ長の大きな瞳がマスターを捕えた。
その眼差しを受け止めたまま、マスターは静かに頷いた。
「ならどうして俺を生ませたの」
霧島の言葉に、マスターは少し驚いたようだった。
「知っていて、どうしてそんな無理させたの」
霧島のか細い訴えに応えるように、マスターはアルバムのページをめくった。
「これを見てごらん」
そこには1枚だけ写真が貼られていた。
肩にかかる栗色のウェーブ、こちらを見上げる真っ黒に濡れたような大きな瞳。
薄紅色の唇は喜びに満ち溢れ、今にも声が聴こえてきそうだった。
その白い腕の中には――
「生まれたばかりの君だよ」
白い布に包まれた幼い子供を抱くその女性は、
「まさに聖母マリアだ」
ゆったりと羽織った薄い布が、いっそう
「女神さまのようだろう」
マスターはそう言って目を細めた。
君のお母さんはね、背が小さくて、手足も細くて、年齢よりもずっと下に見える少女のような女性だった。
その見た目だけでなく性格も、とっても可愛らしい人だった。
コロコロと耳に心地よい声でよく笑う、チャーミングで愛らしい女の子だった。
彼女がそこにいるだけで、花が咲いたように明るくなって、心がほっこり温まって、自然と幸せな気持ちが湧いてくる。
彼女と過ごした時間は、何でもない日でもキラキラとした特別な日のように、うれしくて楽しくて、優しい気持ちに満たされるんだ。
そこがどこであれ――たとえ病院の1室であっても、それを忘れるくらい…彼女自身がいつも新鮮で、軽やかで、ポジティブな雰囲気を醸し出していて、いつでも、どこにいても、そこには華やかな輝きがあった。
マスターはその1枚の写真に目を落としたまま、こう続けた。
「けれど志緒ちゃんは、いわゆる同世代の女の子たちとは全く違っていた。」
年齢こそ僕らより下だったけど、見た目のまだ幼さの残る無邪気な子という印象は、早い段階で覆されたんだ。
もちろん出会った頃に感じた神秘的な美しさは消えることはなかった。
でも、志緒ちゃんの魅力はもっとずっと深いところにもあったんだ。
「志緒ちゃんは、その小さな身体に、小さな手のひらに、細い肩に、聖女のようなたおやかさと、潔さ、芯の強さを兼ね備えた、一人の大人の女性だった」
写真の中のその女性は、出会った頃の幼い霧島を思い出させた。
真っ黒に濡れたような、大きな瞳――。
「例えるなら、そう――‥‥――真っ白い小鳥のような逞しさ―――」
“この子は、私の願い”
“二人は本当に幸せそうだった”
「二人は君の誕生を心から待ちわびていた」
マスターはアルバムをめくると、そこに貼られた1枚の写真を指さした。
「これを見てごらん。」
そこに写っていたのは、今度は「父親」の姿だった。
「こんな聖の表情、さっき見せた写真の中にはどこにもなかっただろう」
前のめりで見つめる霧島の目に映ったのは、幼い子供を抱いて笑みをこぼす“父親”の“みたこともない表情”だった。
「あの聖が――君を抱いて、こんなふうに、信じられないような優しい笑みを浮かべている――ここに写っているのがさっきと同一人物だなんて、僕からしたらあり得ない事実なんだよ」
これはまさしく父親の顔だ―――そう小さくこぼしたマスターは、けれどその表情に薄っすらと哀しみを帯びていた。
写真の日付を指し、マスターはこう言った。
「この時、君は3歳だ」
「つまり、これは志緒ちゃんが亡くなった翌年に撮った写真だよ」
その言葉に、再び霧島の表情が固まった。
まだ亡くなって1年しか経っていない。
なのに、なぜこんなに幸せそうなのか――
ある日突然、劇的な運命の出会いを果たし、生涯大切にしていくと誓った愛する人が、この世からいなくなってしまってから、たった1年しか経っていないのに――
しかも、ここは2人にとって思い出の場所だ。
あの日、二人が初めて出会った、そして結婚式の後に写真撮影をした、特別な場所。
なぜだと思う?――というマスターの問いかけに、霧島はけれどその写真から目を離せずにいた。
かすむ背景には薄ピンク色の空が広がり、その向こう側は真っ青に済み渡っている。
「僕はこの時、ファインダー越しに改めて実感した」
「二人は本当に幸せだったんだと――それは、どうしてだと思う?」
マスターはもう一度そう問いかけた。
「―――――‥‥‥」
沈黙が冷たい空気を包んでいた。
“まるで別人”のようなその“父親”を、霧島は長い時間見つめていた。
霧島の強張った表情は、けれど少しも動かなかった。
マスターは一人静かに頷くと、改めて霧島を見つめこう言った。
「二人が少しも後悔していなかったからだよ」
顔を上げた霧島に、マスターはこう続けた。
「二人は君の誕生を、心から待ち望んでいたんだ」
「そして、君が生まれてきたことを、心の底から喜んでいた」
「この写真が、その何よりの証拠だ」
「――――――‥‥‥‥」
自信たっぷりにそう断言するマスターに、それでも霧島は言わずにはいられなかった。
「どうして止めなかったんだ」
マスターは霧島の鋭い瞳に表情を硬くした。
「医者は?なんで止めなかった?危険だったんだろ?病気だったのになんで?子供より母親が優先だろ?なんで周りは止めてやらなかったんだよ?ばあちゃんだって…看護師のくせに、母さんが小さい時から一緒にいた世話係だったのに、ばかだろ?なんなんだよみんな‥本人たちが望めば人一人死んでもいいのかよ?おかしいだろそんなの――絶対おかしいだろ――」
霧島は恨めしそうにマスターを見据え、口をつぐんだ。
それでも無言で訴えるその瞳に、マスターはすぐには言葉を返さなかった。
“俺は生まれてこない方がよかった”
“俺のせいで母さんは死んだんだ”
「死ぬかもしれないのに――それが分かっていたのになんでっ―――‥‥」
吐き出すようにそう言って顔を歪める霧島を、マスターは真っすぐに見据えた。
そしてしばらくの沈黙の後、こう切り出した。
「いいかい、央人、君個人の”息子”としての立場と、それに当時あの場に居合わせなかったということが、僕が今から君に伝えたいことを理解するのにかなりの弊害になることを承知の上で、ありのままを話す」
「だからどうか、君の中にある“ふつう”とか、“当たり前”とか、そういう世間一般的に考えられる常識のようなものを、一端取っ払って聞いて欲しいんだ」
「これから僕が話すことが、君と、君の両親と、それから当時周りにいた病院のスタッフたち、絹子さん、もちろんこの僕も、そこにいた全員にとっての、“ふつう”の話だ」
マスターはそう邸内に前置きをして、霧島を伺った。
まだどこか腑に落ちていない様子の霧島に、けれどマスターは話し始めた。
まず、前提として、あの時君がこの世に誕生してくることを躊躇する人間は一人もいなかった。
誰一人として、そこに疑問を持つ者はいなかった。
病院の先生方は出産に向けて終始前向きに、万全の準備をしてくれていた。
看護師さんたちも皆、志緒ちゃんが安全に、安心して出産の日を迎えられるよう、日々のケアから当日の計画まで一丸となって取り組んでくれた。
それぞれが、それぞれの役回りで、できる限りのことを実に細部まで様々な力を注いでくれた。
母体も、赤ちゃんも、両方の命を守るために、そこにいた全員が最善を尽くしてくれていた。
「ここまではいいかい?」
マスターは霧島の眼差しに訴えかけるようにこう続けた。
「絹子さんは、もちろんもと看護師として、主に志緒ちゃんの心のケアに徹していたよ」
「庭で採れたハーブを何種類かブレンドした特製のお茶や、ハーブを浸したマッサージオイル、ラベンダーの精油を垂らしたホットタオルはとてもいい香りがして・・目元にあてると眠りが深くなると言って志緒ちゃんが望めばすぐに用意してあげていた」
誰もが安産を願い、そのために精一杯尽くしていた。
そう断言するマスターに、霧島はそれでも食い下がった。
「だから、なんで産むことが前提なんだよ」
前髪の下からマスターを見据える瞳が哀しく揺らいた。
「みんなが母さんの病気を知ってるのに、出産が負担になるって分かってるのに、なんで先に進めちゃうんだよ?なんで‥それがふつうとかあり得ねえだろ、どうかしてる」
「止めてやれよ、死ぬぞって、なんで一人くらい正気なやつがいなかったんだ」
「まだ生まれてない命より今そこにある命の方が大事に決まってるだろ?さっきから言ってること全然意味わかんねぇよ」
珍しく熱のこもった霧島に、マスターはけれど平然としていた。
「僕からしたら‥」
「今の君の主張の全てが意味が分からないということになるな」
マスターはそう言って少し笑って見せた。
「何度も言うけど、二人にはほんの一欠片の迷いもなかった」
「それは志緒ちゃんのお腹に赤ちゃんがいると分かった時から――僕らには歓びしかなかった」
「あとはもう君を迎えるために何をするべきか、それを考えるだけ」
「出産に向かって一直線、二人だけでなく、何十人もの人が、全員で同じゴールを目指していた」
“聖、ありがとう”
あの二人の側にいる人間はみんな分かっていたんだ。
二人が醸し出す何とも言えない空気感というか、肌で感じるくらいの繋がりの深さをね。
ほとんど言葉を交わさない中でも、その全てが神々しいくらいの愛情に満たされている――
見ているこちらが胸いっぱいになるほどの幸福感に満たされるような――
そんな特別な二人の間に宿った命――
後ろを見ることなんて、誰もしなかった。
するはずもなかったし、頭に過ることすらなかったはずだよ。
二人はただそこに寄り添って、同じ空間で同じ時間を過ごしている――
何をするでもなく、何を語り合うでもなく、心と心が呼応している――
二人がそこにいるだけで、その様子を見ているだけで、僕の心も自然と満たされて、浄化されていくように癒されていた――
「あの二人はね、はたから見ても分かるくらい、深く、強く、そして限りなく温かい愛情で結ばれていたんだ」
「――――‥‥‥」
独り言のようなマスターの話を聞きながら、霧島は写真の中の父を眺めていた。
「そんな二人の、この世で一番愛しく、かけがえのない君の誕生を、それを祝福していない人が一人でもいたと思うかい?」
マスターはゆっくりとページをめくった。
「この中に、そんな人が一人でもいると――?」
そこに貼ってあったのは、他の写真よりも大きいサイズの写真だった。
ベッドに座る母と、その周りを囲むようにして立ち並ぶ大勢の白い服の人たち――。
その写真は笑顔に溢れ、そこで交わされた喜びの声が聴こえてくるようだった。
マスターは手元に視線を戻し、こう言った。
「君はさっき、まだ生まれていない命と言ったね」
「けれど、それは違う。
お腹に宿った時点で、命はもうそこにあって、まだ僕らが出会っていないだけだ。
母体も、赤ちゃんも、どちらも優劣なんてない。
君は確かにそこ、志緒ちゃんのお腹の中にいて、皆が皆、君の存在を祝福し、こちら側で君と会えることだけを望んでいた。
誰もが君の誕生を心待ちにし、願い、それはそれは楽しみにしていたんだよ。
マスターの言葉のそのひとつひとつを、霧島は全身で受け止めているようだった。
前髪の下で鋭く張り詰めていた光は、その哀しみも薄く消えかけていた。
「央人、今はまだ、全てを理解できなくていい、この事実を認めることができなくてもいい」
「あの場にいた僕でさえ、当時のことはある種物語の中の出来事だったように思うことがあるんだから」
“聖、ありがとう”
「でも、これだけは受け入れて欲しい」
マスターは霧島の前髪をそっと指先で掻き分けた。
「君は、望まれて生まれてきたんだ」
「――――――‥‥‥‥」
マスターの真っ直ぐな瞳が霧島を捕えた。
「何も心配しなくていい」
―――それだけが真実だ。
マスターの大きな手が霧島の髪を優しく滑る。
「それにね、君は既に大きな役目を果たしているんだよ」
マスターの言葉に霧島は無言で首を傾げた。
「君が志緒ちゃんのお腹に宿ったお陰で、あの二人がどれだけ幸せだったか‥君はあの二人を親にしてあげたんだ」
「君はその喜びを与えてあげた‥君は世界中の誰にもできないことをやったんだよ」
「誰も君の代わりにはなれない――君にしかできない偉業だ」
「君はもう既に、あの二人を幸せにしたという大役を果たしているんだよ」
そしてマスターはこう続けた。
「君が生まれてきた意味はきっとたくさんあるだろう」
「だけど少なくともそのうちの一つは、君の両親を幸せにすることだったに違いない」
「君は二人に待ち望まれていた‥そしてそれを叶えた」
「無事に生まれてきた」
「それは奇跡なんかじゃない」
「君と、志緒ちゃんと、そして君たちを支えたたくさんの努力と想いがあったから、君が命がけで頑張ったからだ」
「だから、そこに携わったみんなの願いが叶った」
「君が叶えたのは両親の願いだけじゃない」
「そこにいた人たち全員の願いを君が叶えたんだよ」
マスターは穏やかな口調でこう続けた。
「志緒ちゃんが亡くなった後も、聖は君を手放さなかった‥当時の聖の想いは、見てごらん、この写真が証明している」
幼い霧島の黒い大きな瞳と白い肌、小さい丸顔――そのあどけない笑みは、母親の面影――
傍らで優しく微笑む父親を見つめながら、マスターは懐かしそうに目を細めた。
「君のことが愛しくてたまらない‥君は聖のこの表情だけ信じていればいい」
ここに写っているのは、母親を亡くし、悲しみに暮れた親子ではない。
「ここにいるのは、ただただ、幸せな父と子だ」
写真に見入る霧島の肩を、マスターはしっかりと掴んでこう言った。
「大丈夫、君は愛されていた」
「―――――‥‥‥―――-」
「自信をもっていい」
「その全てを、この僕が保証する」
“母親はあのこどものせいで死んだ”
“父親はあの子供を恨んで死んでいった”
「もう誰かの思い違いに惑わされる必要はない」
「あの日言われたことは全て嘘偽りだ」
「君は、確かに愛されていた」
「僕はそれを一番近くで見ていた」
「僕は誰よりも二人の君への愛を知っている」
「―――――――・・・」
顔を上げた霧島の頬に涙が滑った。
“二人は少しも後悔していなかった”
“二人は君の誕生を心から待ち望んでいた”
頬を伝う滴がいくつも床に落ちていく。
“あの子は、私の願い”
“あの子は私たちの希望”
薄ピンク色の背景、その向こうに広がる青い空。
父の腕の中でうれしそうな笑顔を浮かべる幼い―――
“央人、見てごらん”
「――――――‥‥‥」
霧島はその写真をもう一度じっと見つめた。
“お母さんが大好きな花だよ”
「―――――――」
「央人?」
その見開いた目から流れる涙をそのままに、霧島はぽつりと声を漏らした。
「俺――知ってる――」
「え?」
「覚えてる―――」
消え入りそうな細い声を、マスターは少し驚いた表情で見守った。
“央人”
「桜の森公園‥‥――-俺‥父さんと来た―――」
「おお…!覚えてたのか!」
“お母さんが大好きな花だよ”
霧島の瞳から涙が後から溢れ出す。
「―――俺―――‥‥‥」
“央人、見てごらん”
「―――俺―――‥‥覚えてる―――‥‥!」
床の上に涙の水溜まりができていく。
「聖はね、志緒ちゃんが亡くなった翌年も、その翌年も、桜が咲く季節になると、必ず君をここへ連れて来ていたんだよ」
聖は毎年、3人でこの場所へ来ていたんだ。
マスターは霧島の汗ばんだ前髪をそっとよけると、流れる涙を指で拭った。
そしてその濡れた瞳を見つめ、改めてこう繰り返した。
「自信をもっていい」
「君は、確かに愛されていた」
あの冷たい雨が降る縁側で永遠のように続いたキィキィ声を、マスターが全て“真実”で塗りつぶした。
“俺は生まれてこない方がよかった”
そう漏らした霧島のあの鋭い表情は、今はもうどこにもない。
声もなく涙を流す霧島をマスターはだまって見守っていた。
霧島の髪を撫でながら、マスターはほっとしたような、けれど酷く疲れているようにも見えた。