「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出⑥』
「浮世」
聖は食べ物にも執着がなかった。
というより、食べること自体に無関心だった。だからたまに会いに行って話をすると、最近いつ食事をしたのか覚えていないことはよくあった。
聖の無関心は自分自身とそれをとりまくほとんどすべての物に及んでいた。
住んでいる家にも、家具や寝具にも、そして日用品のあらゆるものに対しても、何一つとしてこだわりがなかった。
バッズが譲ってくれたというあの家で、そこにあったものを何一つ変えることなく、物の価値に頓着せず使い、暮らせることがその証だった。
それは良く言えば適応能力が高いのだろうけれど、あいつの場合は恐らく、そういう類ではない。
あいつにとって世界はまるで水面下にでもあるかのように、単純に見えていないだけなのだ。
あいつはそれらに対して何の愛着もなければこれといって特別な感情も湧かない――言ってみればかなり浮世離れした生き方をしているやつだった。
俺が遊びに行くとあいつはいつも決まって同じ格好をしていた。
首回りがヨレヨレの白シャツに、着古したグレーのスウェット――ウェストのゴムがのびてたるんだ――それでなくても細いのに、いつも腰の辺りまでずり下がっていた。
それでもさすがだと思ったのは、一般人が同じような格好をしていたら単にだらしないとか身だしなみがなってないとか言われるような服装も、持ち前のスタイルの良さで「オシャレ」に見えてしまうことだった。
お世辞にもうらやましいとは言えないくたびれた格好をしている時でさえ、その立ち姿に、些細な仕草に、ちょっとした動作ひとつにも目を奪われた。そこに当たる光に映え、陰に沈み溶け込む姿に、うっかりカメラを向けたくなった。
聖の無頓着はさすがに「うそだろ」とツッコミたくなることもしばしばだった。
いつだったかこんなこともあった。
冬のある日、いつものように家に遊びに行くと、リビングの黒くていかついソファで聖が丸まっていた。
“目が点になる”とはこのことだと思った。
俺の目に映ったあいつは、いつもの白シャツ&スウェットではなかった。
あいつはその日、全身パステルカラーだったんだ。
俺はしばらくリビングの入り口で動けなかった。
初めて見る色のあいつがそこに丸くなって眠っている。
しばらくの間、これはどうしたものかと訝しげに見守っていた。
近付いてみて見ると、聖が身に着けていたのは女の子が部屋着にするようなモフモフ素材の上下だった。
かわいらしいパステルピンクの、袖口に白いフワフワがついた‥淡い水色とクリーム色の水玉模様の。
俺はさすがにギョッとした。
もちろんそれも“もらいもの”で“おそろい”なのだろうと思いつつ、まさか贈った本人がまだここにいるのかとドキドキもした。
俺は恐る恐るキッチンを覗き、バスルームに聞き耳を立て、その気配がないことを確認した。
とりあえずリビングの暖炉に火を入れて聖が起きるのを待った。
その間に俺は一人モンモン、モヤモヤしていた。
いくらなんでもこの格好はない。
あまりにも無頓着過ぎる。
急に来た俺も悪いけど、でもまぁこいつがこの格好を見られて恥ずかしがるわけもないが‥
その時俺は聖が贈り物の何かを身に付けているところを初めて見たのだった。
そのこともかなり意外で、またしてもいろんなことに妄想を巡らせていた。
このまま起きなければ今日は帰ろう、でも何か言ってやりたい気もするし‥と様子を伺っていると、聖はゆっくりと寝返りを打ち、薄っすらと目を開けた。
目が合ったとき、俺の口から出た言葉は
“――どうした?”
それ以外言いようがなかった。
我ながらなかなかの言葉のチョイスだった。
あれ以上でも以下でもない。
あの時の俺の気持ちを端的に表現した最適な言葉だった。
それに対して本人は「何が」とでも言いたそうに俺を見ていた。
“そのモフモフは?”
俺は笑いをこらえながらなるべく冷静な声で尋ねた。
聖はまだ半分夢の中にいた。
“そのモフモフ”
俺の問いに、聖は一言
“もらった”
…知ってるよ。
だろうな、そうだろうよ、と思いながら、俺はソファの傍らで笑い出すのを必死で抑えていた。
けれど表情一つ変えずに“おそろいだって”とこぼしたあいつに、俺はとうとう吹き出した。
だろうな、そうだろうな、おそろいだろうな!って。
でもさすがにあれは―――
“ないだろ!”
“イヤイヤイヤイヤ、これはないよ!”
俺はあいつのモフモフの袖をつまんだり引っ張ったりしながら大笑いした。
なのに、あいつときたらキョトンとして
“着るものなかった”
‥あれには参った。
“――は?”
“全部洗濯したから”
――まぁ、あいつならたとえ真冬だろうがびしょびしょのまま着かねないから、別の衣類を選んだだけマシだったのかもしれない。
それにしても、そうは言っても、当然のような顔であの――ふわふわのフードにうさぎの耳が付いた半ば着ぐるみみたいな姿でそんなこと言われても、こっちは“ああそう、なら仕方ないか”とはならない。
聖をその場に立たせてみて、俺はさらに言葉を失った。
色や素材はもちろんだけど、なにせ女性ものだからサイズもまったく合ってなかった。
いくら聖をもってしてもあれは明確に「なし」だった。
呆然としていた俺を尻目に、あいつはさっさとテラスへ行ってしまった。
つんつるてんのモフモフを着た長身の男が広々としたウッドデッキのテラスでタバコを吸っていた。
木の柵にもたれて、いつものように遠く海を見つめながら――。
もう違和感しかなかった。
無頓着にも程があるというか、なんというか‥けどあれも写真に納めておけばよかったかもしれない。
「チャーミング」特集として1枚、あってもよかったかもしれないと今なら思える。
そもそもあの大きな家には海外仕様の立派な洗濯機があって、もちろん乾燥もできるやつだったから乾かすこともできたはずなんだ。
それにあの家はオール床暖完備だったし、もちろんヒーターもオシャレで機能的なやつが備え付けてあったのに、あいつはそういう便利なものは一切使わずに、(暖炉だっていつも俺が行った時に火を入れる程度)あのモフモフ上下を着込んで、赤ちゃん用のタオルケットに包まっていた。
相変わらずガラス戸は少し開いたままだったし。
けれど俺はなぜかあいつのそういうところも微笑ましく思えた。
一緒にいるといつも新しい発見があって、おもしろくて、飽きないどころかあいつに対する俺の興味は募るばかりだった。
ある時、俺は聖に仕事について聞いたことがあった。
前にボスにも聞いていたけれど、当の本人にはそれまで一度も「正誤確認」をしていなかった。
若くしてボスに認められ、仕事を一人で任されていること、固定客がたくさん着いていること、その技術は素人の俺でも感動するほどで、さぞかし今の仕事に遣り甲斐を持っているだろうと――俺はそう思っていた。
そしてこの仕事は聖の天職なんじゃないかと、この仕事が好きなんだろうなと勝手に考えていた。
“好きなことを仕事にするって一番いいことだよね”
俺自身がそうだったから、きっと聖も同じだと思った。
そうであったらうれしいとも思った。
けれどあいつは俺の熱量に反し、至極無機質にこう言った。
“できることが仕事になっただけ”
俺の期待はあっさり片付けられてしまった。
呆れるほど淡泊なやつ。
あいつの執着心のなさは、仕事に対しても同じだったんだ。
あいつにとって整備士という仕事は、やってみたらたまたまできたことというだけで、それがたまたま仕事として成立しているだけのことだった。
その道において自分の価値がどれだけ高いかなんて、一度だって一ミリも考えたことはないようだった。
あいつにとって、整備の技術とか実力とか、周りの評価、その他云々、そういうことは一切どうでもいいことだったんだ。
聖はけれど人の話はちゃんと聞いてくれるやつだった。
自分にも他人にも何に対しても無関心で我関せずなやつだけど、俺が話始めると遠くにいてもこちらへ来て、すぐ側で俺の話を聞いていた。
聞き流したっていいような内容の時でも、ちゃんと耳を傾けてくれた。
それって当たり前のことだけど、“あの”聖だからそういう当たり前のことにさえ感動する俺だった。
そんな聖がごくごく稀にではあるけれど、俺の話に薄っすらと笑うこともあった。いつも俺は一方的に話をしていたけれど、ある時初めて、俺のどうでもいい話に――イマイチあいつのツボは分からないのだが――こちらを流し見て、口の端を少しだけ上げて――
俺はあの時の感動を今でも鮮明に覚えている。
それからというもの、俺はあの微笑みとまではいかない表情をもう一度見たくて、その表情を引き出す話題を模索した。
わざと話を盛って大げさにしてみたり、どうってことのない小さなエピソードでも、さも大ごとだったかのようにおもしろおかしく脚色して話したりして――。
どんなにバカバカしくても、どれだけ長くなっても、取り留めがなくても、聖は黙ってそこに居て、俺の話を聞いてくれた。
時折うん、とか、そう、とか、短い相槌を打ちながら、時々、小さくふうん‥、と漏らしながら。
それは俺にとって心地よいトーンで、話しやすいタイミングで、俺は聖の相槌を聞きたくて話を続けた。どうしたら笑ってくれるだろうと考えながら、なんでもいいから言葉を繋いだ。
聖はいつも俺の気が済むまで、時には夜遅くまで付き合ってくれた。
普段、自分を含む世の中の全てがどうなろうと関係ないっていうカオで暮らしているやつが、俺の他愛もない話をいくらでも聞いてくれた。
けれど、聖が自分自身のことを話してくれることはほとんどなかった。
どこで生まれ、どんな風に育ったのか、家族はどうしているのか――それは取り立てて話すようなことではないかもしれないが――俺が何か聖に関することを尋ねようとすると、大抵は軽く流されてそれ以上は聞けなくなった。
いつもあの何とも言えな薄い笑みにさらりと交わされた。
そして、その後は不思議と「何も知らなくていい」と思えてしまうんだ。
それでも何度か試したことはあった。
例えば――聖はいつも、女性が選ぶような華奢な細い煙草を吸っていたんだけど、ある日何の気なしに、あの煙草は彼女とお揃いなのかって聞いてみたんだ。
でもあいつは何も答えずに、首を少しかしげただけだった。
まるで俺が何を言っているのか聞き取れなかったとでも言うように。
それから白い煙を細く吐いて、俺の目を浅く見つめ、口の端を少しだけ上げただけだった。
それからまた別の日、聖の仕事場に遊びに行った時、あの浜で――休憩室では他の人たちも煙草を吸っているのに、どうしてわざわざ海岸に降りてくるんだって聞いてみた。
“外で吸うのがクセになった”
そう答えたあいつの言葉に恐らくどこも違和感はなかった。
けれど俺はすかさず“彼女が煙草嫌いなんだ?”ってカマをかけてみた。
あいつがうっかり“そうだよ”なんて答えるんじゃないかと思ったから。
でもあいつは、顔色一つ変えなかった。
ただいつものように僕を見て、白い煙をすぅーっと吐きながら、いつものように口の端で薄く笑うだけだった。
聖のあの笑みとも言えない表情に俺は俄然弱かった。
言い寄って来る女性を沈めるときに使うあいつの手だと思っていたし、だから尚更恥ずかしくなった。
俺はあいつに纏わりついてくる女子の一部ではない、列記とした友人のつもりだったから。
あいつにあんな表情をされると、俺がいたずらにカマをかけたり、あいつの笑顔が見たくて話を盛ってることが全部見透かされてるみたいに思えた。
無言で“航平はおもしろいな”って言われてるみたいで、子ども扱いされているみたいで‥
なのに俺は腹も立たない、それどころか心地よさを感じていた――あれには何度も複雑な気持ちにさせられた。
今思い出しても、聖は正直ズルいと思う。
イエスでもノーでもない、あいつらしい返し方。
イエスでもノーでもどちらでもいい。
こちらが思うとおりでいい。
自分のことなんて知らなくていい。
ほんと、いかにもあいつらしい。
俺の妄想さえ何の意味も与えない――どこまでも無機質で、どこまでも温かい――
俺に無関心なあいつが、俺は大好きだったんだ。