長編小説「きみがくれた」中‐⑰
「懐かしい声」
霧島がまだ水を飲むことさえままならない。
このままでは桜の森病院へ連れて行くことになる。
翌朝早く、まだマスターが店を開ける時間よりも前に亮介がやって来た。
部屋のドアから無遠慮に入って来たかと思うとそのまま荒々しくこちらへ向かい、ベッドの前で足を止めた。
チェストの上には今朝もマスターは用意したポットとコップが2個置いてある。
そこに数日前から増えたのは“一人分の鍋”、お椀には“おかゆ”とスプーン、それにりんごジュースのビン。
霧島はさっきマスターに体を起こしてもらい、けれど“おかゆ”にも興味を示さなかった。
亮介の足音も耳に入らず、気配すら捉えていない霧島の視線はどこか別の世界を見ているようだった。
「霧島」
亮介は低い声で呼びかけると、その反応を待った。
青白い頬、伸びた髪、乾いた唇。
「霧島」
亮介は傍らに腰を下ろし、もう一度呼び掛けた。
痩せた腕、繋がれた管、骨張った指。
届かない声。
亮介は霧島の肩を掴み、自分と正面から向き合わせた。
力なく緩んだ首は傾いて、目はどこか宙を仰いだ。
「聞こえるか、霧島!」
よく通る大きな声が、漂う視線に問い掛ける。
亮介はけれど不意に掴んだ手を放し、その“細さ”を今更思い知った。
「―――おま‥マジかよ―――」
廊下を足早に歩く足音がして、マスターが姿を現した。
「今大きな声がしたけど、亮介君、来てたのか」
「霧島!おまえいつまでそうしてる気だ?!」
霧島に掴みかかる亮介に、マスターは慌てて部屋に入って来た。
「マスターに心配かけて、俺たちに心配かけて!なぁ、霧島?!」
亮介は霧島の腕を掴み、
「見ろこの腕!!こんな細っちくなっちまって!このままじゃおまえっ――おまえまでっ―――!!」
「亮介君」
けれど亮介は止まらなかった。
「おまえは、生きてるんだ!!」
その手を揺さぶりながら、そう必死に訴える。
「生きてる人間は食わなきゃだめだ!おまえのこんな細い体じゃどこにも蓄えなんかねぇだろ?!こんな点滴だけじゃどんどん痩せてっちまう!ただでさえ細ぇのに!おまえはっ――いつまでそうやってっ―――!」
そして亮介はすがるように霧島を抱きしめた。
「――――頼むよ―――‥‥なぁ、―――‥‥‥霧島―――‥‥‥」
亮介は背中に回した両手で霧島のシャツを掴んだ。
「おまえまで―――失わせないでくれ―――‥‥‥」
「頼むから―――生きようとしてくれ―――‥‥‥」
“おまえは生きろ”
あの日の幼い声が遠くに聴こえた。
「霧島―――」
“おまえは生きろ”
声は強く、小さく、震えていた
“おまえは生きろ”
あの日、体中を駆け巡った
息が詰まる程熱く、重く、優しい声
布団の上に投げ出された手指は冷えて、動く気配もない。
鼻を寄せ、頬ずりをする。
手首に額を擦りつけ、袖口に鼻を滑らせていると、触れた指先がぴくりと動いた。
「霧島」
ベッドサイドに腰を据え、亮介は真剣な表情で切り出した。
「いいか、よく聞け」
「おまえがいつまでもそんなふうなら、このままずっと、一切飲まず食わずを貫く気なら」
「こいつが先に餓死するぞ。」
亮介は脅すような口調でそう言うと、鋭い眼つきで霧島を見据えた。
「こいつが死んだらおまえのせいだ。いいのか?」
痩せた肩を強く掴み、亮介はその何も映さない瞳に呼び掛ける。
「こいつだってもう若くない。こんな小せぇ体じゃあとどれくらいもつか分からねぇぞ。」
「見ろ、こんなにガリガリの痩せこけちまって、背骨もアバラも浮き出てる。こりゃおまえの比じゃねぇぞ。」
「漆黒の艶々だった毛並みもこんなにパッサパサになっちまって、しっぽだって竹ぼうきみてぇに貧弱に――」
「全部おまえのせいだ。おまえがこいつをこんなにしたんだ。」
「年の割に毛艶も良くてフットワークも軽くてよ、頭の先からしっぽの先まで賢さが溢れてて、スタイル抜群だったのに、今じゃここに入り浸りで寝てばっかでメシも食わねぇ。体力がないから動けねぇんだよ。」
「こいつはな、おまえがこのまま、ここでそうしてるならな、おまえと一緒にここで終わる気でいるぞ。」
霧島の指先に鼻を寄せ、腕に刺さった針に、白い皮膚に頬ずりをした。
亮介を見上げてみると、その顔は今にも泣きだしそうだった。
「こいつが死んでもいいのか。」
亮介の目は、まるであの幼い日の霧島の目だ。
「おまえはこいつを道ずれにしたいのか?」
“おまえは生きろ”
「―――おまえ、自分の命は自分だけのもんだと思ってるだろ」
“おまえは生きろ”
「言っとくけどな、おまえのその命は、おまえだけのものじゃねぇんだぞ!」
亮介の目から涙が溢れた。
「勝手に殺したりしたら俺が許さねぇ!!」
淋しがり屋で、泣き虫で、ひとりぼっちの霧島を、マーヤは置いて逝ってしまった。
何の前触れもなく、ある日突然、さよならも言わずに。
「おまえに、俺たちからおまえを奪う権利はねぇんだ!」
霧島は、もう二度とマーヤに会えなくなってしまった。
何の前触れもなく、ある日突然。
来るはずだった当たり前の明日は、もう来ない。
「おまえが死んだらどうしてくれんだ‥なぁ霧島。俺はそんなん絶対ぇ許さねぇぞ?!―――絶対にっ‥‥そんなことしたら俺はっ‥‥おまえを許さねぇっ―――!!」
悔しそうに言葉を絞り出す亮介に、それでも霧島の表情は変わらない。
マーヤはもうここにはいない。
あの笑顔に、あの声に、あの姿に、霧島はもう会うことができない。
「なぁ霧島、俺に――俺たちに‥これ以上の哀しみを背負わせるのか―――?おまえは、俺たちに――そんな地獄を見せる気か―――?」
今一番聴きたい声は聴こえない。
今一番会いたい笑顔はここにない。
「霧島、おまえは、なにも悪くない」
亮介の目から涙がいくつも零れ落ちる。
「夏目の死は、おまえのせいじゃない」
亮介は決意したようにそう吐き出した。
「おまえは生きていていいんだ」
震える声が霧島の呼吸を深く導く。
「おまえが自分を責める理由なんてどこにもないんだよ」
成す術もなく、ただ失ってしまった。
当たり前のようにもう二度と会えなくなってしまった。
「頼むから‥自分を大事にしてくれ――」
何に怒り、何にすがり、どう悲しめばいいのか。
どこから受け入れ、どう向き合い、どんなふうに感じたらいいのか
「霧島、おまえが今抱えてる終わりのない悲しみは、無限にのしかかってくる淋しさも、苦しみも、おまえ一人で背負わなくていいんだ。おまえが償うことなんか何もないんだから。おまえはおまえの人生を、この世界で、こっち側の世界で、生きていていいんだよ」
流れる涙を拭いもせず、亮介は言葉を投げ続けた。
「生きることをやめないでくれ、霧島‥―――俺たちに、おまえを失わせないでくれ―――‥‥おまえまで‥‥失わせないでくれよ―――」
“マスター俺、霧島には早く目ぇ覚まして欲しいんです”
“マスター、俺…やっぱあいつ、このまま…目ぇ覚めねぇほうがいいのかもって”
「頼むから―――俺たちがいる、こっち側で――――」
“またあの話をしなきゃならないなら、俺はあいつをこのまま眠らせておいてやりたい”
「頼むから―――」
“夏目がいてくれたらって”
「生きてくれ―――‥‥‥」
こっち側で――‥‥生きようとしてくれ―――
指先の温もりに顔を上げると、伸びた前髪の下に涙の筋が滑り落ちた。
それはいくつも投げれては落ち、布団の上にぱらりとこぼれた。
「―――霧島―――‥」
ベッドにすがりついたまま呆然とする亮介のもとへ、マスターはゆっくりと歩み寄った。
「央人‥」
「――あぁ、そうだ」
「霧島――‥‥おまえは、生きてるんだ―――」
その声はようやく霧島に届いた。
「大丈夫だから―――」
“大丈夫だよ”
「大丈夫だから―――‥‥」
祈るように握りしめた亮介の手は小刻みに震えていた。
“大丈夫だよ”
“きっと助かるよ”
霧島の頬を伝う涙を額に受けながら、胸元の辺りへ体を伸ばす。
“もう大丈夫”
前髪の下で切れ長の瞳がこちらを見つめる。
その細い顎に集まる雫を鼻に受けると、瞳の端から溢れた涙が頬を伝った。
“抱いておやり”
シャツの襟首に鼻先を付け、首筋に頬ずりをすると、弱く震える指先が耳に触れた。
その指に額を擦り、手首に、手のひらに頬ずりをしていると、
「‥‥ごめ‥‥―――な―――」
喉の奥へ消え入りそうな微かな声だった。
「霧島―――」
亮介の泣き声が大きくて、久しぶりの声は簡単にかき消された。
声を聴けた。
“ごめんな”
大好きないつもの優しい声だった。
マーヤのいないこの世界で、霧島はこれからも生きていく。