「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出⑩』
「桜の森」
珍しく冴子さんと霧島が一緒にマスターのお店にやって来た。
ドアが開くと同時に冴子さんの「信じらんない!」が飛んできて、僕もマスターも何事かと思った。
お店はもう閉まっていたから、周りにお客さんはいなかった。
冴子さんの後ろから入って来た霧島は、カウンターのいつもの手前の席を避け、奥の方へ歩いて行った。
「信っっじらんない!!」
冴子さんはマスターに向かってもう一度訴えた。
「この子ったら知らんカオでスタスタ歩いてったんだから!!あんなに大声で名前呼ばれてるのに気付かないってどういうこと?!!」
「すぐここでよ?!ここで、央人っ!!ってこれくらいの大声で呼んだのに!」
冴子さんには何があったのか聞きたかったんだけど、その隙はまったくなかった。
「すぐ目の前に私がいるのに、よ?」
「通り過ぎていく央人を目で追う私の気持ち分かる?」
冴子さんはその時のショックを“ゾっとした”と表現した。
僕は霧島がまた“やっちゃったんだな”と思った。
そして冴子さんはこれで2度目だった。
あの日は平日のお昼時だったけど、桜の森公園はお祭りみたいに大賑わいだった。
霧島は薄紅通りの歩道で一人、公園の黒い柵の傍らに佇んでいた。
「なーんかぼんやりしてる子がいるわぁ~と思ったら央人じゃない?」
冴子さんは配達の途中で、車から偶然霧島を見つけて声を掛けた。
「ミニキャブぶっ飛ばしてる最中だったんだけどわざわざ止まってやったのよ」
「なのにこの子全っ然こっち向かないの!」
「すぐそこに停めて大声で呼んでるのに全く気付かなくて!何回も呼んで、やっとこっちに向かって歩いてきたと思ったら、私の前を素通りしてったのよ!!」
”ほんっっっと信っっっじらんない!!”
と冴子さんは顔を真っ赤にして怒っていた。
僕にしてみれば霧島のスルーは珍しいことじゃなかった。
貴博なんかしょっちゅうだったもの。
でも冴子さんは
「気付かれなかったことが腹立たしいんじゃないの、むしろ心配なのよ私は!」
と言ってカウンターの端に座る霧島に目をやった。
冴子さんはマスターに促されてようやくカウンターの一番手前の席に座ると、
「大声で名前を呼ばれても気付かなかっただけじゃなくて、あろうことか私の顔にも無反応だったの!!私はそのことが信じられないのよ!!」
そう手元をバンバン叩きながらマスターに訴えた。
「あの子ったら私の顔を見てもすぐには分からなかったのよ?!あり得ないでしょ?!」
あの時の冴子さんは霧島にやられた貴博みたいだった。
貴博は“またシカトされたぞ”って、僕にクレームを言ってくるんだ。
霧島のことはおまえがなんとかしろ、ってさ!
冴子さんこの時のことを“デジャヴ”だと思ったと言っていた。
私自分が他人に見えてないんじゃないかって不安になった、とも。
冴子さんはずっと根に持ってたんだ。
霧島が中1の時に学校で一度会っていたのに、2回目にアネモネで会った時は霧島が自分のことを全く覚えてなかったこと。
“私、自分の記憶を疑うほど傷付いたんだから!”
“目が悪いならメガネかけなさいよ!”
この時から冴子さんの“霧島はメガネをかけるべき”論が始まった。
「目が悪いならメガネをかける!当然のことでしょう?!」
「そもそも黒板の字が見えないからって授業に出ない理由にも試験範囲がわからない理由にもならないから!」
カウンターの端っこに座る霧島に向かって、冴子さんは不満をぶちまけていた。
「すぐそこにいる人が知り合いかそうじゃないかわからないなんておかしいでしょう?!」
「あんたの場合、もはやモラルの問題よ!メガネ云々以前の話よ!」
「こっちの身にもなってみなさい!」
その日、冴子さんから散々責められていた霧島は、もういい加減にしてほしいとでも言うようにカウンターからソファ席へ逃れた。
これはいつものパターンだった。
黙んまりを決めた霧島と、おかまいなしに感情を吐き出す冴子さん。
霧島はほんとに冴子さんのことをよく分かってるんだ。
ああいう時はどこへも行かず、その場にいた方がいいって。
もしあそこで霧島が店から出ようとしたら、冴子さんの怒りがもっと大変なことになってたと思う。
冴子はさんは目の前のマスターと、横に座っていた僕に向かって、まだまだ言い足りないその時の心境をぶちまけ続けた。
マスターは冴子さんのお茶を用意する間もなく、ひたすらその言い分に付き合ってあげていた。
こういう時、亮介さんの“知恵袋”が役に立つんだ。
“冴子が憤慨してるときの教え『3S』”
“1、遮らない 2、諭さない 3、逆らわない”
つまりは「冴子ちゃんの話をちゃんと聞くっていうことかな」ってマスターは苦笑してたけど、僕はちょっとおもしろかった。
この時だって冴子さんは怒ってるというよりも、霧島のことが大好きで仕方ないって言ってるように聞こえてたから。
冴子さんは“道端で”霧島を“拾う”と、残りの配達を手伝わせた。
「もちろん説教するためよ、決まってるでしょ」
その言葉にマスターは
「叱ってくれたのは授業をサボっていたからだと思ったけど」と苦笑して、「配達を手伝わせたのはいいけれど、学校には戻らせなかったんだね」と微妙な笑みを浮かべた。
「学校に戻った方がよかったかもね」
僕がそう霧島に投げかけると、霧島は何も言わず窓の外を眺めていた。
冴子さんはあれからずっと霧島のメガネにこだわっていた。
“日常生活に支障があるならかけたら?”
いつかのマスターの提案に、あいつは即答で“ない”って答えていた。
冴子さんはブッチんキレて、顔真っ赤っかにして
“あるでしょ?!”
「黒板の字見えないんでしょ?!支障ありまくりでしょう?!」
「あんた目の前にいる人の区別もつかないんじゃない!!」
「てゆうかむしろ何も見えてないんじゃないの?!」
いつものカウンター席で夕ご飯を食べていた霧島に、冴子さんは喰ってかかっていた。
「別に困らない」
「あんたが困ってなくても周りがめーわくしてんのよ!!」
「とばっちりだ」
「はぁ?!どっちがよ!!」
「こっちが」
「あんたでしょーが!!何言ってんのよっ!!」
「知らねぇよ」
「どこまで自分勝手なわけ?!」
「自分さえよければそれでいいの?!」
「ちょっとは周りのことも考えなさい!!!」
畳みかけるようにお説教する冴子さんの一方的な攻撃にも、霧島はメガネはいらないという姿勢を貫いていた。
けれどもちろん冴子さんがが引き下がるわけもなく、“メガネ論争”はそれ以降も長引くことになった。
実際、霧島は黒板の字が見えなくても“支障なかった”。
授業中にノートをとらなくても、というより授業に出ても出なくても、何も困ってなかった。成績には表れなかっただけで、本当は僕なんかよりずっと勉強ができるんだ。
冴子さんは霧島の“そういうところ”も“ムカつく”んだって。
そもそも、中学では“最下位をあらそうような”成績だった霧島が、突然“名門”の藤桜高校へ行くと決めて、あっさりと合格したという“事実”も、それから高校入学後は再びその実力を“一切放棄”して、“怒られない程度に”“やっつけ試験”で“お茶を濁している”ことにも、
「単純にイライラする」
と言っていた。
僕が霧島に勉強で聞くことがあるなんて言ったら冴子さんがもっとイライラしちゃうから言わなかったけど、霧島は僕が解らない問題を聞くといつもさらっと解いて見せてくれるんだ。
途中式は分からないし、解き方は説明できないって、だから教えるのはできないって言ってたけど。
多分ね、頭の中で、教科書に載ってるような式は使わないで解いてるんだよ。
あとはなんだろう、僕らには想像もつかないようなレベルで答えが出てきてる感じ。それで自分でもどう解いてるのか説明できないっていう表現になるんだと思うんだ。
でもね、一度だけ僕が霧島にお願いして、途中式っぽいものを書いてもらったことがあってね。
亮介さんはその広告の裏紙を見て、「イトミミズが散らばったような数式」とか、「吹いたら消えちまいそうな図形もどき」だなんて言っていたけど、僕にとっては誰が何と言おうと、世界にたったひとつの宝物なんだ。
だって霧島の頭の中を初めてちょこっとだけ見せてもらえた気がして、僕はとってもうれしかったから。それに、説明が苦手だって言っていた霧島が、一生懸命僕のためにどうにかこうにか頭の中身を紙に書き出してくれたんだ。こんなうれしいことないよ。
桜の森公園の桜が満開だったあの日、冴子さんは霧島を“引きずってでも”メガネ屋に連れて行く勢いだった。
もし冴子さんにその後の仕事が入っていなかったら、“確実に連行されていた”と僕も思う。
「絶対メガネかけさせるから、覚えときなさい!」
そう言ってマスターからお客さんの予約表のファイルを受け取った冴子さんは勢いよく店のドアを開けた。
僕は笑いをこらえるのが大変だった。
“あんたは何がそんなにおかしいのよ?!”
“ちょっとマスターもなんとか言ってよ!!!”
両手でお腹を抱えながら、僕は冴子さんにこう言った。
「霧島のスルーは珍しいことじゃないよ」
“それに――”
そもそも無理なんだよ。だって霧島は貴博のことも知らなかったんだからさ。
僕は冴子さんに、藤桜に入学してからもやられっぱなしだった貴博の話をした。
霧島は貴博を覚えてないんじゃなくて、知らなかった。
貴博は、樫小、楓中の出身、つまり僕らと小・中・高とも同じで、中学では霧島と同じクラスになったこともあった。
藤桜に入るための“スパルタ特別講義”に霧島を誘って断られたエピソードもある。何より、貴博は中学の頃は生徒会に入っていて、クラスでも3年間1位投票で学級委員をしたみたいだし、3年の時は生徒会長にもなった。運動会では毎年応援団長もやってたし、楓中の子なら知らない人はいないっていうくらい、他の誰よりも有名人だったんだ。
なのに。
僕は話しながら笑いをこらえるのがやっとだった。
だって貴博ってほんとにおもしろいんだもの。
「だから冴子さん、霧島のスルーは珍しことじゃないよ」
“それに―――”
まさに“とばっちり”を受けたマスターの苦笑と、既に“第三者のフリ”を決めていた霧島を交互に見て、冴子さんはやっぱり“不完全燃焼”だった。
僕は笑いをこらえきれずに吹き出しちゃって、冴子さんは僕をじろりと睨みつけた後、
「いい央人、この話まだ終わってないわよ?!」
「いいわね?!」
と言い捨てて、お客さんとの打ち合わせに向かった。
それから僕は手を叩いておもいきり笑った。
「あー、おもしろい!冴子さんてほんとにおもしろいよね!」
マスターはカウンターの中でコーヒーを煎れながら、
「冴子ちゃん、よっぽどショックだったんだね」と、言った。
霧島はマスターがどうする?と聞いたホットココアも断っていた。
そもそも霧島は人の顔を覚えないんだ。だからみんな、あんまり気にしなくていいと僕は思うけど‥
霧島のスルーは珍しくないよ。
それに、あの時は仕方なかったんだ。
だって、桜が満開だったんだもの。