長編小説「きみがくれた」中‐㉟
「愛しい気持ち」
夕暮れ前のそよ風が霧島の頬を撫でていく。
湿った髪の間に額が覗くと、亮介は驚きの声を上げた。
「うわっこいつ汗びっしょりだ!」
霧島の前髪をかき上げて、亮介はますます驚いた。
「なんだよこいつ涼しいカオしやがって!首まで汗だくじゃねぇか!」
マスターも慌てて霧島の背中に手を入れる。
「これは大変だ、早く起こそう」
「つかこいつどんだけ熟睡してんだよ」
そうぼやきながら亮介は霧島の肩をゆすった。
「こいつさぁ、俺がいっくら前髪切れっつっても絶対ぇ切らねぇの。っとにかわいくねぇよなぁ。せっかくのイケメンがもったいねぇ。もっと見せびらかしゃいいのに。」
「あはは。それが嫌なんじゃないかな。高校の先生に“イケメンの持ち腐れだ”って言われたことがあるって、夏目君に聞いたことがあるよ。」
「おぉ!その先生センスあるじゃん。まさにソレだよ!おーい、いい加減起きろよ!」
亮介は霧島の耳の側で声を張った。
「そんなんじゃ起きないよ。央人、寝起きが悪いんだ。」
マスターは苦笑して霧島の肩を揺らした。
「央人、起きろ、央人!」
“霧島”
「おい!!霧島!!」
「おいこら!霧島!!おいって!!」
亮介は霧島を体ごと大きく揺さぶりながら、大声で呼び続けた。
そうしてようやくその瞼が僅かに動いた。
「央人、そろそろ中に入った方がいい」
冷えるから‥とマスターは薄く開いたその瞳の奥を覗き、自然と頬が緩む。
「―――――‥」
亮介がわざと影を外し、霧島は強い日差しに顔をしかめた。
「よぉ、やっとお目覚めか眠り姫」
まだ夢の中にいるような黒い瞳がその声の主を見つけた。
眩しそうに目を細める切れ長の大きな瞳に、亮介は一瞬表情を止めた。
太陽に晒された(さらされた)青白い肌、痩せた頬‥
汗で湿った髪もそのままに、仰いだ瞳は光に透けて、黒く濡れたように澄んでいる。
「――亮介‥」
まだ寝ぼけている霧島の久しぶりに聞く自分の名前に、亮介は照れ臭そうに「おぅ」と応えた。
「――――なんでいんの」
「――‥‥」
霧島の心の底からうっとおしそうなその顔に、亮介は返す言葉が見当たらなかった。
霧島はゆっくり体を起こし、素っ気なく亮介に背を向けた。
「‥ってんめぇおい待てコラ!久々に会ったってのになんだその態度は!!」
やっと絞り出した抗議も空しく、霧島はまるで何事もなかったかのように立ち去って行く。
遠退いて行く汗で色が変わった背中に向けて、亮介は「薄情モノ!」と叫んだ。
「ったくこっちの気も知らねぇで」
二人はあっけなく芝生の上に取り残されていた。
クソ、と吐き捨てる亮介に、マスターはにっこり微笑んだ。
「亮介君‥僕ら二人とも、片思いだね」
そう言ってマスターは亮介の肩に手を乗せた。
「女子中学生か、俺たちは」
「そっけない先輩に想い焦がれる少女の気持ち‥?」
マスターは両手で頬を覆って見せた。
「愛されてるよなぁ」
「うん、央人は典型的な愛され体質だね」
「うぅ‥辛ッ‥!」
両手で短い髪を掻きむしる亮介に、マスターはわざとらしくふぅっと溜息をついて見せた。
「僕なんか、プロポーズの答えをお預け状態だからね」
「あ‥」
「せっかく決死の覚悟で想いを伝えたのに‥」
そう言うマスターはけれどどこかうれしそうに見える。
「“待て”の状態で放置だよ、‥」
「うわぁー、そうだった」
「答えを書いた板を裏返しにされて、それを目の前にぶら下げられてる気分‥でもそこに答えが書いてあるかどうかも実は定かではないっていうさ‥それすらも分からないままの、“お預け”‥」
「わぁ~あいつマジで罪なぁ、冴子の言うとりだぜ」
「冴子ちゃん?」
「“自覚のないイケメンはタチが悪い”!」
「あぁ!それね」
「自分(テメエ)が愛され体質だってことを自覚してないヤローはもっと質が悪ぃだろ‥てことはあいつは2重にタチが悪いってこった!イケメンの自覚も愛され体質の自覚もない、軽薄で人の心を弄ぶ、罪深い―――」
「愛すべき男、だね‥」
「―――あぁ‥―」
亮介は悔しそうに顔をしかめ、けれど“納得せざるを得なかった”。
「分かってるよ‥俺ぁあいつがかわいいよ、どうせ一方通行だって、どこまでいっても突き当りもなにもない片思いだって、分かってるさ」
“俺はあいつのことが好きだから”
「それでもいいんだもんねー」
“すげぇ大事だから”
「あぁ・・!愛しいぜ霧島ぁ!」
そう両手を空へ向けて声を張り、けれどすぐに小さくふて腐れた亮介の傍らで、マスターは汗を拭きながらうれしそうに笑っていた。
部屋へ入ると中はほどよく快適だった。
白いカーテン越しに差し込む淡い光が、ベッドの上で丸くなった霧島を優しく包んいる。
薄い布団に埋もれた体はもう眠りの中にいた。
せっけんの匂いに鼻を寄せ、濡れたままの髪に鼻を擦る。
心地よさそうな寝顔に頬ずりをして、その鼻先に額を付ける。
聴こえてくる寝息の側で、そっと体を丸めた。
暖かくて、穏やかで、いい匂いに包まれていた。
そんな毎日が当たり前になっていた。
霧島はいつもここに帰って来た。
そんな日々にすっかり安心していた。