長編小説「きみがくれた」上ー⑦
「2年」
「ばばちゃんのスミレ、こんなに増えたんだね!」
マーヤは足元を見渡して、今年もまた驚きの声を上げた。
「ここが気に入ったんだね!」
去年と同じようにうれしそうな笑みを浮かべ、
「おととし蒔いたばかりなのにね」
と感心している。
“ずっと昔”、“ここ”とは“環境が全く違う”、“異国の地”から持ち帰られた花の種は、ばあちゃんの庭で何年もかけて少しずつ増えた。
「植物ってすごいよね!」
マーヤはそう言ってうれしそうに笑った。
そして再び目の前のりんごの木を見上げる。
「大きな木だね――」
今年も去年と同じ言葉をつぶやいて、満足そうに見つめている。
数年前のちょうど今頃、このりんごの木が初めて花を咲かせた年に、マーヤは初めてここへ帰って来た。
マーヤはそれ以来この季節になるとここへ来て、昔の話を聞かせてくれるようになった。
けれど、りんごの花が散る頃にはまた行ってしまう。
この街に――深森にマーヤがいるのは、ほんの少しの間だけだった。
最初帰って来た年に話してくれたのは、マーヤが初めて一人旅をした旅先での出来事だった。
高校を卒業した春、幼い頃からずっと待ち望んでいた旅。
“あの夜の満月は息をするのも忘れるくらい素晴らしい迫力だった”
どしゃぶりの雨に誘われるように、マーヤは一人山へ入った。
お気に入りの青いテープレコーダーをポケットに入れて、“イヤホン”で“宝物の”カセットテープを聴きながら、真っ暗な山道を進んで行った。
“どきどきして、わくわくして、うれしくて、思わず小走りになった”
“この雨が止んだら‥って思ったら、僕もううれしくてうれしくて‥!”
あの夜のマーヤの気持ちを、そんな風に話していた。
幼い頃から憧れていた夢がようやく叶う、その寸前の“高まり”を、マーヤはまるで昨日のことのように話してくれた。
前日から降り続いていた予想通りの大雨と、“完璧な満月”。
“その日の夕方まで土砂降りだった雨が、奇跡みたいに晴れたんだ”
マーヤは小さい頃から雨が大好きだった。
“大雨に洗われた清々と青黒く澄んだ空に”
“うそみたいにキレイな満月が浮かんでた”
うっとりと目を閉じて、マーヤは続けた。
“山の切れ間に…あんな完璧な満月見たことないよ”
“あの夜の満月はスーパームーンだったんだ”
そして――
“振り返ると、崖の上の空に信じられない光景が―――”
「僕、霧島に謝りたいんだ――」
りんごの木を見上げたまま、マーヤは今年もまた同じ言葉をつぶやいた。
マーヤはここへ帰るたびに同じ言葉を繰り返す。
”僕、霧島に謝りたいんだ――”
去年、マーヤが最後に話してくれたのは、高校の卒業式の思い出だった。
“マツミナ”の“ここぞとばかりの撮影攻撃”に霧島が“本気でキレそうになった”こと。その“マツミナ”に“結局制服を丸ごと一式持って行かれた”こと。
“ネクタイと校章だけは販売も検討した”“マツミナ”が最終的には“全女子生徒を取りまとめ”、“写真集とともに完成形で展示する”と決定したこと。
それを霧島は“断固阻止”しようとしたけれど“訴えるだけ無駄だった”こと。
マーヤはその二人のやりとりをおもしろそうに笑いながら話してくれた。
そして自分は“ネクタイだけは死守”し、約束通りほとりちゃんにあげたと言った。
“マツミナは霧島と言い合いになってたから、そのスキにね”
それから“貴博が宮本さんに告白したことと、成功したのは“ほとんど霧島のお陰だった”こと。
“「おまえはバカか」の一言が貴博に火をつけたんだ”
貴博はみんなの前で、“おまえが霧島を好きな気持ちより俺がおまえを好きな気持ちの方が何百倍もでかい”と言い切った。
“僕お腹が痛くなるほど笑ったよ”とマーヤは笑った。
“けど宮本さんには貴博の熱い想いが伝わったんだ”
霧島は涙を流して大笑いするマーヤの横で貴博を“自己中”だと呆れていた。
“でもね、なんだかうれしそうだったから、僕もすっごくうれしかった”
「わぁ、あんな所にも咲いてる!」
りんごの木から少し離れた砂利道に、マーヤはばあちゃんのスミレを見つけた。
小石の隙間からそれは点々と顔を覗かせている。
「ばばちゃんの庭であれだけ咲くのに、ものすごく長い年数がかかったのにね」
「ここにはたった2年でこんなに咲いて‥やっぱり植物っておもしろいなぁ」
そしてマーヤはくつくつと笑い出す。
「あの時の霧島の顔――‥」
この話はこれまでに何度も聞いて、今ではすっかり覚えてしまった。
いたずら好きなマーヤが起こしたその“大惨事”を、霧島は“スミレ爆弾事件”と言った。
マーヤはこの高校2年の時に起きた“一番おもしろい”思い出を毎年必ず聞かせてくれる。
「あの日は霧島が柳先生に進路相談で呼び出された日でね」
両手で口元を抑えながら、マーヤは楽しそうに話し始めた。
アパートの部屋で“ふて寝”している霧島を確認してから、マーヤも自分の部屋で寝入ってしまった。
そして“事件”はその夜に起きた。
「パンッ!パンッパパンッ!パパパパパパパパパパ‥‥パンパンパンッパパンッッッ!!!」
あはははは…!!
マーヤは破裂音のものまねをしながら声を上げて笑った。
真夜中に突然鳴り響いた“バクチク並みにすさまじい音”に飛び起きて、ベッドから飛び降り玄関先まで突っ走ったことは今でもよく覚えている。
「あれは僕もびっくりしたよ!急にあんな大きな音がするんだもの、何事かと思ったよ!」
「けど――ぷぷぷっ…あの時のあいつのカオ…っ!!」
もう音がしなくなって、しばらくしてから恐る恐る部屋へ戻った。
中を覗いて見るとベッドの上に月明りの窓辺の隅っこで頭から毛布をかぶった霧島が固まっていた。
「あはははは!あははははは‥!!」
あの時もマーヤはふすまから顔を覗かせ一人で大笑いしていた。
“あーびっくりした!なに今の?!あははははは!!”
それから霧島の部屋の電気をつけて、毛布の隙間に怯えきった霧島を見つけると、マーヤはいっそうお腹を抱えて笑った。
霧島はまだ怯えたまま、手を叩いて笑い転げるマーヤに唖然としていた。
僅かにずらした毛布の隙間に汗ばんだ前髪が張り着いた顔の一部と、見開かれた片目だけが見えた。
その黒い切れ長の大きな瞳は明らかに困惑し、目の前でうづくまって笑いをこらえるマーヤを凝視していた。
「あれは爆竹並みにすさまじい破裂音だったよ!」
「僕だってすっごくびっくりしたんだ!まさかあんなすごい迫力だとは思わなかったもん!」
マーヤはあの夜の興奮が戻ったかのように瞳をくるりと輝かせた。
“種だよ!スミレの種が弾けたんだ!”
毛布の中で息を殺す霧島に、マーヤは笑いながら説明した。
“すっごい音だったね!ほら見て、こんな所にまで飛んできてる!”
見れば床のあちこちに黒い小さな粒が飛び散っていた。
マーヤはそのひとつひとつを丁寧に拾いながら、“ゴマの半分くらいの大きさだ”と笑っていた。
そんなマーヤの様子を見つめたまま、霧島はしばらく衝撃から抜け出せずにいた。
“スミレ爆弾”
毛布から頭だけ出した霧島は一言だけそうつぶやいて、ベッドの上にも見つけたその種をそっと指先に付けた。
二人がスミレの種を拾い集めるのにだいぶ時間がかかった。
マーヤがばあちゃんの庭から摘んできたスミレの“包”は“ボール一杯分は余裕であった”から、そこから飛び出した種の数は“ハンパじゃなかった”。
マーヤはずっとくつくつわらっていた。
“あーおもしろかった”とか“驚かせてごめんね”とか言いながら、それでも“あの時の霧島のカオ!”とお腹を抱えた。
低いテーブルの上に拾い集めた無数の黒い粒を見下ろして、マーヤは“奇跡の結晶”とつぶやいた。
もう一度寝直そうと言ってふすまに手を掛けたマーヤは、霧島に向かってこう尋ねた。
“柳先生になんて言われたの”
その時のマーヤはもう少しも笑ってはいなかった。
「おまえのように協調性も社会性もない自発的行動も皆無な人見知りの淋しがり屋は社会に出たって到底やってかれんだろうなぁ、がっはっは」
それを聞くと、マーヤは再び爆笑した。
「先生、霧島のことよく分かってくれてるんだね!」
そう手を叩くマーヤに、霧島は再び落ち込んだ。
「欠落してることが多すぎてもはや何も見えん」
「あはははは!そんなこと言われたの!あはははは!」
そしてマーヤはくつくつ笑いながら、
“どうじゃぁその容姿ばぁ活かしてぇモデルにぃでもなりゃあいいわぁ”
“今はやりぃのドクモぉとかの?”
“まぁーーあとりあえずそのぉ邪魔っけぇなぁ長げぇ前髪ぃ切れぇやぁ”
って?!と“似すぎて嫌がられる”ものまねをして、霧島の怪訝な顔にあははと笑った。
“ウチとこのぉ女子生徒がぁみぃんなぁよぉっ喜ぶじゃろぉの!”
“イケメンの持ち腐れじゃぁおまえはぁ!”
“もぉっと見せびらかしたらいいわぁ!”
“だあっはっはっはっは!”
「柳先生の口から読モって!あはははは!」
「あいつ悪口しか言わねえ」
毛布の中のくぐもった声に、マーヤは満面の笑みを浮かべた。
“大丈夫だよ”
先生の言う通り、霧島なら雑誌のモデルにも外国のなんとかっていうショーに出るモデルにもなれるし、きっとどんな職業にも就けるよ。
マーヤは満足そうに微笑んだ。
“大丈夫だよ”
“霧島は何にでもなれるよ”
“僕が保証する”
それは自信たっぷりなマーヤの言葉だった。
マーヤはそれから電気を消さずに自分の部屋に戻って行った。
「スミレ爆弾だって、くくく‥よっぽど衝撃的だったんだね、―ぷぷぷ」
あの夜、マーヤが隣の部屋に戻った後、霧島は意外とすぐに眠りについた。
夜はあまり眠らない霧島が、マーヤが泊まりに来た時にだけベッドに入って眠ることを、マーヤは今も知らない。
霧島は夜になると大抵はベランダに出ていた。
アパートの周りは森しかない。
他に建物もなく、人の気配は全くない。
月明かりがなければ真っ暗闇になる。
霧島はそんな他に誰もいない――”今にも崩れ落ちそうな”そのベランダで一晩を過ごしていた。
森の木々に“ほとんど飲み込まれている”錆色の柵にもたれ、時折りんごの苗木を傍らに曖昧なギターを弾いていた。
ごく稀に、小さい声で口ずさむ唄は、いつも同じメロディーだった。
それは静まり返った闇夜に消え入りそうな、優しい温もりのある唄だった。
マーヤでも知らないことが、本当はいくつもある。
スミレの種を蒔きに行こうと言い出したのはマーヤだった。
ズボンのポケットに手を入れては、黒い小さな粒をアパートの敷地に撒き散らした。
霧島は錆びだらけの階段の手すりにもたれてその様子を眺めていた。
“ばばちゃんが大好きなこのスミレが街のあちこちで咲いたら素敵だと思わない?”
そう振り返ったマーヤの笑顔が乾いた風になびいていた。
霧島はマーヤの姿を見つめたまま、その口元はほんの少しほどけていた。
マスターの店の中庭にも、マーヤはスミレの種を蒔いた。
“ずっと昔”、“ここ”とは“環境が全く違う”、“異国の地”から持ち帰られた花の種――。
“ばばちゃん、このお花かわいいね”
“ばばちゃん、このお花すごく小さいね”
“ばばちゃん、このお花、なんていう名前?”
“それかい、それはね、すみれ”
“そうねぇ、まーちゃんの小指の爪くらい小さいねぇ”
“これはね、ずっと昔に、ずっと遠くの国からやってきたの”
“遠くの国?”
“そう”
“こことは違う土と、こことは違うお水と、それからこことは違う太陽の光”
“本当は、この土地を選ばないお花なの”
“選ばない?”
“芽を出そうかな、よそうかな、ってね”
“でも、こんなにたくさん咲いてるよ”
“そうねぇ、今ではこんなにたくさん、咲いてくれたねぇ”
“たくさん、たくさん時間をかけて、少しずつ、ほんの少しずつ、数も増えてくれたねぇ”
“そんなにたくさん時間がかかるの?”
“そお”
“たくさんて、どのくらい?”
“そうねぇ、まーちゃんが生まれるよりも、ずっと、ずーっと、前からねぇ”
“えぇ!そんなに?!”
“――ふふふ”
「ばばちゃんの庭にあれだけ咲くのに、ものすごく長い年月がかかったのに―――」
マーヤはもう一度そう繰り返し、改めて足元を見渡した。
「ここは、たった二年でこんなにたくさん―…」
マーヤの背よりもずっと大きくなったりんごの木。
その下にいくつも花を咲かせる、“おととし蒔いたばかりの”スミレ――。
たった二年で”こんなにたくさん―――
マーヤは毎年、そう言って驚いている。
「―――フリージアの匂い」
高く昇った太陽の陽だまりに、ふわりすっきりと澄んだ香りが立ち昇る。
“フリージアより浅い、華やかな匂い”
“フリージアだ!!”
顔を上げて叫んだマーヤの声に、ばあちゃんはにっこり微笑んだ。
“正解”
”まーちゃんは鼻がいいねぇ”
“すごいね!ばばちゃん、この花、すみれなのに、フリージアとそっくりな匂いがするね!!”
暖かい、よく晴れた日、庭ではしゃぐマーヤと、縁側に腰掛けたばあちゃんの話し声。
廊下の窓辺に寝ころんだ霧島の、小さな寝息。
窓の外には日向ぼっこに最適な青い青い空が広がっていた。
「ここで初めてスミレを見た時は、たった1、2輪だったと思うけど…霧島にばばちゃんのスミレだよって教えたら、あいつなんて言ったと思う?」
“――そんなんあったっけ”
「そんなんあったっけ、だって、――あいつ、ほーんと植物に全然興味ないんだもんなぁ」
“霧島”
“ちょっとこっち来て、ほら!”
“このすみれ、フリージアとそっくりな匂いがするよ!”
「あのスミレだよ、フリージアに似た香りがする、ばばちゃんの庭に咲いていたスミレだよって、スミレ爆弾の種の、って…でもあいつ、全然覚えてなかったんだ」
そしてマーヤは再びりんごの木を見上げた。
まだマーヤの膝丈ほどだった、“ちっぽけ”で“頼りない”、“枝が刺さっただけみたいな”苗木――。
ベランダに鉢植えのまま置いてあった、マーヤが毎日大切にお世話をしていたりんごの木―――。
しばらく口をつぐんだまま、マーヤはぼんやりと頭上に咲き誇る薄ピンク色の光景を見つめていた。
“まーちゃんは大きくなったら何になりたいの”
“ぼくね、大きくなったらしぜんはくぶつがくしゃになるの”
“そぉ、すごいねぇ”
“まーちゃんにぴったりだねぇ”
マーヤの背丈を遥かに超える高さに生長したりんごの木――
マーヤは今年も、この木を初めて見るような目で見つめている。
けれどその瞳にはどこか懐かしく、そしてとても愛おしい気持ちが溢れていた。
“今年の誕生日会はこの部屋でやろう”
“記念にりんごの木を地植えにしよう”
“きっと3年もすれば僕らの背よりずっと大きくなって、たくさん花を咲かせるよ”
それはマーヤが出発の日を決めた夜だった。
“実が成ったらジュースを作ろう”
“あのりんごちゃん印のりんごジュースよりおいしいジュースを、僕が作ってあげるよ”
それまで一度も約束をしたことがなかった二人の、初めての約束だった。
「赤いほっぺにチョウネクタイ、にっこり笑顔のりんごちゃん――」
マーヤはあの頃のように口ずさみ、にっこり笑った。
「霧島はね、小さい時からりんごジュースが大好きで、しかもりんごちゃん印のりんごジュースが一番のお気に入りでね」
「でも、なんとかストアっていうお店がなくなっちゃったから、飲めなくなっちゃったんだって」
“あれ以外ならどれも同じなんだって”
「あれ以外ならどれも同じなんだって」
だからマーヤは
「亮介さんに頼んで、一番おいしい実が成る品種の苗木を市場で買ってきてもらったんだ」
“亮介さん、一番おいしいりんごが成る苗木だよ”
そう念を押すマーヤの珍しく強めの言葉に、亮介が困った顔をしていたのはもう何年も前のことだった。
「――――‥‥‥」
“りんごちゃん印のりんごジュースよりおいしいジュースを、僕が作ってあげるよ”
まだマーヤの膝丈ほどだった、“ちっぽけ”で“頼りない”、“枝が刺さっただけみたいな”苗木――
りんごの木を見上げるマーヤの横顔は、どこかぼんやりとかすんでいた。