長編小説「きみがくれた」中‐㊾
「あの香り」
いつものようにまだ暗いうちに目が覚めて、見上げると今日もベッドの上に霧島はいなかった。
床に敷かれた毛布に残る僅かな匂い。
霧島は確かにここに居た。
雨音は聴こえなかった。
渡り廊下にはいつも通りマスターの“夜コーヒー”の香りが漂っている。
店へ続くドアを抜け、踏み台を伝い店へ降りる。
薄暗い店内を進み外へ出ると、まだ空気は冷たく湿り気を帯びていた。
まだ端に雨の跡が残る早朝の坂道を、ゆっくりと下りていく。
角の古い街灯にはまだ明かりが付いていた。
人影のない通りを進みながら、何度も立ち止まっては振り返る。
通りの向こうに、その先に、注意を払い進んで行く。
郵便ポストの足元で一休みをする。
空の色が夜から朝へ移り変わるのをぼんやりと眺める。
薄紫色が広がる先に、白く透き通った丸い月が浮かんでいた。
アパートがあった敷地の片隅に、りんごの木はまだそこに立っていた。
今年も無数のピンク色の粒が木の枝を隠している。
周りに咲くばあちゃんのスミレは、去年よりも少しだけ数が増えている。
“フリージアの匂い”を確かめて、その傍らでもう一休み。
道の向こうに気を配りながら、風が運ぶ匂いに鼻を寄せる。
角のエコマートにお客さんの姿は一人もなかった。
‘椴の森’まで歩いてくると、太陽はすっかり空を明るくしていた。
空地と畑しかない景色の中に立ち止まり、どこまでも広がる緑の先に目を凝らす。
月見山のふもとまで歩いてくると、ここでまた一休み。
上からの足音、吹く風の匂い、後ろを振り返り、そして辺りを見渡して―
昨日の夕方まで降り続いていた大雨が、山道にもまだ残っていた。
ぬかるみを避け、草の上を選びながら登っていく。
と、吹き降りて来る風の中で、あの香りに出会った。
初めてこの香りに気が付いてから、これで何度目だろう。
毎回ちょうど今頃、りんごの花が咲く頃に、たった一度だけ香るこの匂い―
そしてそれはいつも朝だった。
登るごとに濃く、重くなる。
それは年々存在感を増している。
途中一休みを挟みながら、やっと山道を登りきる。
一面に広がる野原へ出ると、その濃密な甘い香りが辺り一帯を覆うように漂っていた。
吹き抜ける風にも動じない、むせかえるような濃度を抱え、けれどそこにすっきりと澄んだ瑞々しさも含む、心地良い香り―――。
野原はいつもと変わらない景色だった。
足元には背の低い緑の草が生え、遠くには野原を囲うように背の高い木々が風に揺れているだけだった。
ありふれた風景を眺めていると、太陽は空の天辺まで昇っていた。
重い腰を上げ、山を下りる準備をする。
今朝も霧島は姿を現さなかった。
泥の水溜まりを避けながら、滑らないよう慎重に足を進めていく。
温度が上がった土の匂いと、見上げれば木々の開けた先に真っ青な空が広がっていた。
先を行く幼い二人の足跡を、小走りで追い駆けていた。
振り返る白い頬に零れる光。
振り返らない足早の靴底。
古いギターケースに揺れる銀色の光。
白いビニール袋の中にはソーダ水。
振り返らずに進んで行く足早の後ろ姿。
月見山を降りきったところで足を止め、畑の向こうへ目を凝らす。
あの木々の陰から、あの道の先に、意識を澄ます。
あの土手の上から、あの草むらに、あの家々のどこかに気配を探す。
‘樫の森’へ戻り、アパートの跡地を通り、誰もいないことを確認する。
‘楓の森’へ行くまでの途中、冷えたアスファルトの上で、車の下で、木陰で、何度も一休みをする。
アネモネの店頭は“母の日シーズン真っ最中”で、赤やピンクに埋もれていた。
昔霧島がアパートの部屋で“ループリボンの刑”と言っていたのもちょうどこの頃だった。
二人には“素質”があり、“才能”があった。
相変わらず忙しく動き回る冴子を横目で見ながら、桜の森公園へ足を延ばす。
すっかり緑色に変わった園内は一面真っ白い砂が輝き、まばらに人が行き交っていた。
黒いベンチの下で砂に反射する光に目を細めていると、遠くにいつかの霧島の姿が浮かび上がった。
今日も霧島はどこにもいなかった。
いつもの時間、いつもの道、いつもの場所、そのどこへ行っても見つけることはできなかった。
店の扉がカラララン・・・と音を立てるたびに現れる姿を確認する。
黒い服に、黒い荷物に、目を奪われる。
よく似た声に耳を立て、扉まで走り、けれどその声は大抵、似てもいない。
明日も、明後日も、その次の日も、あの頃と同じ時間に、同じ道を歩き、同じ場所へ行ってみる。
その時間にその道で、その場所で足を止め、懐かしい姿に目を凝らす。
今日は会えるかもしれない。
明日は帰って来るかもしれない。
あの道の向こうから、あの通りの角から、歩いてくるかもしれない。
明日、目が覚めたらベッドに寝ているかもしれない。
今、月見山へ行けばそこにいるかもしれない。
一日の残りの時間は、店のソファ席の下で過ごす。
窓の外に目を凝らし、懐かしい姿に思いを馳せる。
お客さんの膝の上でも、カウンターのイスの上でも、次にあの扉が開いたら霧島が入って来るかもしれない、次に扉が開いたら、きっと次は――。
「なるべく床に近いところに居させてやってくれない?」
「あら、ごめんねぇ」そう言われて膝から降ろしてもらう。
ソファ席の下に潜りこみ、再び窓の外へ目を向ける。
あの門扉の後ろに、駐車場の向こう側で、通る人に集中する。
もしかしたら今日は帰って来るかもしれない。
次に扉の開く音がしたら、電話が鳴ったら、あの靴の音は、もしかしたら―
もしかしたら今日帰って来るかもしれない。
もしかしたらもうすぐ帰って来るかもしれない。