長編小説「きみがくれた」中‐㊸
「さよならのかわりに」
りんごの木は約束通り“そこ”に植えられた。
ばあちゃんのスミレが咲く一帯の、“ちょうど真ん中”。
まだ二人の膝丈くらいのりんごの苗木は、薄闇の中にひっそりと立っていた。
亮介に言われた通り、霧島はりんごの周りに浅く掘った溝にバケツ1杯分の水を注いた。
そのバケツを亮介に返すと、霧島は黙ってその場を離れようとした。
「おい、どこ行くんだ」
亮介は慌てて霧島を呼び留める。
「どこへ、行くんだ?」
亮介は霧島の背中に向かってもう一度問い掛けた。
マスターの店に帰るなら送ってってやる。
暗闇の中、低い声でそう呼び掛ける亮介は、いつになく強引な口調だった。
敷地の端で立ち止まり、けれど何も答えない霧島に、亮介の息が僅かに上がる。
「おまえ、フザけんなよ?」
霧島は背を向けたまま、けれどそれ以上先には進まなかった。
「何考えてる?」
張り詰めた空気がいっそうしんと冷え渡る。
亮介はバケツを地面に置くと、霧島に向かってこう言った。
「今日一日、俺がどんだけ忙しかったと思ってんだ。朝っぱらから市場行って、配達7件の合間に新築の庭の施工の打ち合わせ、資材の発注に植栽の見積もり、新規のクライアントは現場に行って話すはずが結局電話になっちまった。」
霧島は体を半分亮介に向け、その暗い影を見つめていた。
「朝からメシも食わずにバッタバタのとこに冴子からおまえの伝言聞いて、でも抜ける時間なくて、おまえのこと頭の隅に置きながら仕事からも離れらんなくて」
亮介はそう言いかけて、大きく溜息をついた。
「―――礼のひとつも言えねぇのか」
亮介の低い声は鈍い怒りを帯びていた。
暗闇に冷たい風が吹き抜ける。
“なにを考えてる”
亮介の問い掛けは闇の向こうへ消え去った。
霧島は亮介と真っ直ぐに向き合った。
「ありがとう」
あっさりとそう口にして背を向けた霧島に、亮介の緊張が不意に途切れた。
「待てよ!俺が冴子の伝言聞いてどれだけ心配したと思ってんだ。急にアパートに来いってだけで何かあったんじゃねぇかって、このクソ忙しい日に車運転してても打ち合わせ中も書類書いてる時もおまえのことが心配でずっと気が気じゃなかったんだぞ。」
「仕事なんかとっとと終わらせておまえんとこ行ってやらねぇとって思いながらなかなか終わんなくて、どれも今日中に上げちまわねえとならねぇ案件ばっかで――やっと全部片付けて駆け付けてみりゃおまえはこの寒空に朝から飲まず食わずでこんなとこにいやがるし、来たら来たでこれから植え付けするとか言い出しやがるし。」
「俺ぁ昔っからおまえに振り回されんのには慣れてっけどな、いっつもおまえはイチイチ口が足らねぇんだよ。」
亮介は暗闇の中で霧島の背中にそう訴えた。
「俺は、分からねぇんだから。おまえが何をしたいのか、何をして欲しいのか、ちゃんと言葉にして言ってくんなきゃ分からねぇんだよ。」
「分かってやれねぇんだよ、俺には――‥」
ったく‥俺がどんだけ――‥
そこまで言って亮介は口をつぐんだ。
暗がりの中、二人は互いにじっと見つめ合っていた。
「言っとくけどな、‥おまえは言わなきゃ分からねぇだろうから、あえて、言うけどな。俺は、はっきり言って悔しいんだよ。こんなことを言わなきゃならねぇことも、こんなことを言わせるおまえにも。こんな俺自身にもな。」
「おまえには今まで何度もムカついたけど、今が一番ムカついてる。」
亮介は闇の中の霧島に向かってそう言い放った。
「ごめん」
そう言ったのは霧島だった。
霧島の静かなその言葉に、亮介は息を呑んだ。
「ごめん、じゃねぇよ」
亮介は抑え込むように声を出した。
「何に、ごめん、なんだ」
「言ってみろ、おまえは何に謝るんだ」
亮介はなるべく平静を装うように霧島を問い詰める。
「言えよ」
亮介の責めるような口調に、霧島は渋々口を開いた。
「亮介が、苛ついてるから」
「たりめぇだ。おまえのそのカンジ嫌な予感しかしねぇんだよ。俺ぁな、こないだの電話以来ずっと不安で仕方ねぇんだ。」
「—――――‥‥」
「おまえ、何考えてる?」
と、突然暗闇に耳障りな騒音が鳴り響いた。
亮介が手に持っていたジョーロを勢いよく足元のバケツに叩き込み、その拍子にジョーロもバケツもろとも地面の上に転がった。
空気をえぐるようなごちゃ混ぜの金属音に、けれど霧島は少しも動じる様子はなかった。
「何考えてる?」
亮介は低い声を震わせもう一度同じ質問を繰り返した。
それはさっきよりも酷く冷静で、けれど熱を帯びた声だった。
「―――‥」
亮介にも、きっと分かっていた。
「おまえフザけんなよ」
亮介の低く太い声が乾いた空気を突き抜ける。
「フザけんなよ。」
何も答えない霧島に亮介は何度も繰り返す。
「誰にも、何も言わずに行くつもりか?」
亮介はさよならが忍び寄る足音を今この場で消してしまいたかった。
「何を考えてるんだ」
亮介の声に霧島は応えなかった。
かわりにその黒い影に向かってこう言った。
亮介、いつもありがとう。
霧島の声が残るその場所で、亮介は一人佇んでいた。
その背中を遠く見送ったまま、もうそれ以上は霧島に掛ける言葉は出てこなかった。