「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出⑨』
「神業」
真っ赤なランボルギーニとシルバーのマセラティが乗りつけてあるのを見て、俺はガレージに駆けこんだ。
けれど工場のみんなは頭を突き合わせ、何やら深刻そうな空気だった。
整備工場なんだから壊れた車が持ち込まれることは日常茶飯事なわけだけど、その車は故意に壊されたものだった。
「依頼は外の2台じゃあねぇよ」
ボスは興奮する俺の顔を睨みながら深い溜息をついた。
「持ち込まれたのはあれだよ」
そう整備士の一人が指さしたのは、ガレージの中央にひっそりと留められていた、あの
「っえぇえぇ…?!!」
喉を潰されたような声が出ても仕方なかった。
世界一高額で有名な、世界一カッコイイで有名な、超高級イタリア製の車がそこにあった。
遠目からでも分かる、見るも無残な姿だった。
その損傷具合はただ壁にこすったような軽いものではなく、前ががっつり潰れた状態だった。ボンネットからバンパーからかなりめちゃくちゃになっていて、ライトは全て破壊されていた。
両サイドのドアもボコボコ、カーブミラーはかろうじて付いていた。
俺はすぐに強盗の仕業だと思った。
こんな高級車の持ち主なら絶対に警備が万全な場所に置いておくはずだ。
それをかいくぐってこんなボコボコにするなんてよほど深い恨みを持った人物に違いない。
けれどそれはとんだ思い違いだった。
あの狂気とも言える所業は持ち主の女性本人がしでかしたことだった。
「…わざと?」
「あぁ」
「ヤバイだろ」
整備士たちは、皆口をそろえて言った。
わざとぶつけてるって。
事故かそうじゃないかは、見れば分かる。
「だいたいどんな事故ならあんなにまんべんなくボコられるんだ」
そのいくつもの傷や凹みは明らかに故意によるものだった。
「しかも男の力じゃない、非力だけど何度も繰り返し傷めつけた」
あのイタリア製の超高級車は車の造りとしても頑丈で、多少の衝撃ならある程度は持ちこたえられる筈の車体だった。
その堅い車が、散々な有様だった。
「でもこの辺りは見た目、事故っぽい衝撃の跡だな」
そう言って指した個所は全部で5か所。
どこか固い壁のようなところにある程度スピードを出して頭から突っ込んだような衝突によるもの。
「そっちにも相当ダメージあると思うぜ」
幸い、運転していた本人に大きなケガはなかった。
首に包帯をしていたから多少痛めたのかもしれないけど、大事には至らなかった。
けれど問題はその先にあった。
そもそもあれ程の車にあそこまですること自体が正気じゃない。
まさかあの車の価値を知らないはずもないだろうし、というのがみんなの意見だった。
それよりもケガを覚悟で自ら衝突、破損破壊させる行為は誰がどう考えても尋常じゃない。
「狂気の沙汰」
それが全員一致の意見だった。
「それでもここまで運転して来れるだけの機能は残してあるってとこがまた」
「そこは偶然じゃないか?」
彼女の精神的な面に不安を抱きながらも、ピリついた空気は少しずつゆるんでいった。
ところで聖は‥と思ったところで、誰かがこんなことを言いだした。
「ここまでくるともう命がけだ」
その言葉に俺はまさか、とボスを見た。
「お金も命もあなたのためなら」
「捨て身の恋とでもいうのかな」
ボスの顔は険しかった。
ボコボコの超高級車が敷地内に入って来た時、最初に出迎えたのはボスだった。
彼女の「ぶつけちゃった」という”軽い”言葉にさすがのボスも“ゾっとした”。
「霧島聖さん、いらっしゃいますよね」
フロントガラスを下げた“お嬢様”は“華やかな笑顔”でそう言った。
彼女は案の定担当を聖にして欲しいと申し出た。
壊れた車が持ち込まれて、聖に依頼があった。それを断る理由はどこにもなかった。
聖には既に固定客がついていたし、聖の腕を見込んで指名してくるお客さんもたくさんいた。口コミで飛び込みのお客さんが来て聖を指名することもよくあることだったから。
どんなにいわく付きの案件であろうと、お客さんのプライベートに首を突っ込むこともない。
みんなの推測はこうだった。
彼女は聖に修理して欲しくて車を壊した。
つまり聖に会う口実を作るために、それだけのために体を――命を張った。
そしてその張っただけの見返りが彼女にはあった。
お客さんの中には女性も何人もいたし、みんな聖のファンだったから、最初は彼女が特別どうこうということもなかった。
けれど、徐々にみんなが引っ掛かることが出て来たんだ。
彼女は毎日ガレージに現れた。
毎日自分の車を見に来ていた。
毎日違う車で――ベンツ、フェラーリ、ポルシェにBMW‥その“お嬢様”の愛用車はどれも整備の行き届いた高級外車だった。
聖以外のスタッフがその車に手を付けていないか監視している、というのが先輩たちの見立てだった。
その車を預けた時、彼女は聖にお願いしたいとボスに何度も念を押していたらしい。
そして次の日もその次の日も彼女はガレージにやって来た。
監視と同時に、…それを口実に、聖を見に来ていたんだ。
修理中の車を見に来ていると言えば、聖が作業をしているガレージの奥へ通さざるを得ない。
一か月くらいの間、俺が遊びに行くと必ずそこに彼女がいた。
誰が用意したのか詰め所にあった古い椅子に新しいクッションを乗せて、“お嬢様”は四六時中そこに腰を下ろしていた。
恐らくそれは彼女的には“完璧な”ヘアスタイル、“完璧な”メイク、“パーフェクトな”ファッションだったのだろう。至極ご満悦な様子で聖を見つめているその姿は、無骨なガレージの中では酷く滑稽に見えた。
その上鼻を抑えても無意味な香水の匂いを漂わせていたものだから、俺は内心聖に仕事のスピードアップを望んでいた。
彼女は並々ならぬエネルギーを放っていたと思う。
ここにいる俺のことなどいないも同然の集中力――ここにいる権利を勝ち取った執念とも言える聖への好意。
そして、ようやく最後の日がやってきた。
元通りになった車を受け渡す日、彼女は聖に面と向かって、はっきりとこう言った。
“あなたに直して欲しくて壊したの”
彼女は車を持って来た日からずっと首に包帯していた。
その日もしっかり包帯を巻いて登場し、正面切ってそう言い放った。
想像しただけで恐ろしい。
周りで見ていたスタッフに言わせると、それはまさに“狂気の告白だった”。
もちろんみんなドン引きってやつだった。
けれど聖は、そう言われても顔色一つ変えなかった。
“私、あなたに直して欲しくて壊したの”
これみよがしにそう告げた彼女に、聖は
“―危ないよ”
たった一言、そう言った。
言葉ひとつとれば当たり前の返しかもしれない。
けれどあの顔が、あんな表情で、あの目で、
それにあの声で、
“危ないよ”
「見てるこっちが照れちまった」って、その場にいた整備士の一人が言っていた。
おまえはバカかくらい言ってやりゃあよかったのにって、文句を言ってた人もいた。
でも聖はそんなことは何一つ口にしなかった。
彼女がやったことはばかげている。
どうしてそんなことするんだとか、もっと自分を大事にしろとか、車がもったいないとか、お金の無駄だとか、整備士をなんだと思ってるんだどか、こちら側からはいくらでも責められるような、そう言われても仕方ないようなことをした。
俺だってそう思った。
でも、
“危ないよ”
その一言は、絶妙なタイミングで、抜群のトーンで、イイカンジの雰囲気で放たれた。
彼女はまさにハートを鷲掴みされたような顔をしていたらしい。
周りにいたスタッフでさえ“ズキュゥゥゥーーン”ってなって、“グググッ”っときたって。
そんな状況だったから、その子には相当刺さったんじゃないかと思う。
放心状態でその場からしばらく動けなくなってたらしいから。
一撃必殺、最小限のエネルギーで最大限に最高の効果を発揮する、アッパレなコスパ最強の返しだったって、彼らは盛り上がった。
当の聖はきっとなにも考えてなかったんだろうけど。
あいつはたったの5文字で、一人の女性がそれ以上暴走することを止めた男だ。
あれはあいつなりの優しさだったんじゃないかって俺は思っている。
あいつの思いやりの気持ちがあの一言に全て集約されていたんだ。
それが彼女の心に真っ直ぐ伝わったからこそ、きっとそれ以上のことにはならなかったんだ。
もしあそこで聖が、“そこまでするなんて迷惑だ”とか、“もう二度と来るな”なんて突き放すようなことを言っていたとしたら、もっと関心を向けさせるためにもっと危険なことに及んでいたかもしれない。
もしかしたら逆上して暴れていたかもしれないし、それでさらにケガが増えたかもしれない。ストーカーになって聖にまで危害を加えていたかもしれない。あんな高級外車をめちゃくちゃにするような子だから何をしでかすか分からない、もはやそんな精神状態だっただろうから。
そういう危険な精神を持った女子でさえ、聖はうまく受け流した。
あいつにはどういうわけか、身も心も全てを捧げますと言わんばかりの一途にのめり込むような女性が寄ってくる。
こちらの予想を遥かに超えたトリッキーな女性を引き寄せてしまうタチだった。
だからこそ身に付けた対処法だったのかもしれない。
彼女たちは自分の優越感や独占欲、所有欲を満たすような贈り物を持って来る傾向にあった。
まるで動物がマーキングでもするかのように、自分が使っているボディソープやシャンプーにコンディショナー、お揃いの部屋着やブランケットなんかがいい例だ。
聖には彼女たちの執着心を駆り立てる何かがあったのかもしれない。
聖に陶酔する女性がいる。
聖を監禁したい女性がいる。
けれど聖は、どこ吹く風、っていう感じ。
あいつは今まで本気で人を好きになったことがあるのかな。
ああいう彼女たちのたぎる想いを、聖自身が感じたことがないから我関せず、なのだろうか。
それとも、そう感じないように生きてきたのか。
いつかそんな話もできたらいい。
あの“狂気”の一件で、俺は一人そんなことを思っていた。