「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出①」
「猫アレルギー」
俺がまだリストランテで働いていた頃、休みの日はカメラとバイクに明け暮れていた。
目的地も撮るものも決めずに、気まぐれにバイクを走らせてシャッターをきった。 街の情景、野山の景色、空や鳥‥被写体はそこにある風景だった。
聖を思い出すとき、いつも決まって同じ景色が浮かぶ。
音のない世界、目の前には遮るものが何もない、どこまでも果てしなく広がる草原―。
空は薄曇りの灰白色‥細長い草が一面波のように風にたなびいている…―――。
聖は風のようなヒトだった。
物静かで、余計な執着心がなく、物おじしない…いつもどこか余裕があって、掴みどころがない男だった。
さらりと心地よく吹き抜ける、体温より低い暖かさを帯びた‥――
ぼんやりしているようで、何にも興味がなさそうで‥でも――絶対的に優しくて温かい―
一面に広がる草原一帯を、包み込むように吹く穏やかな風――。
俺は聖のことが大好きだった。
聖は常にニュートラルで口数も少なく、喜怒哀楽がほとんどなかった。来るもの拒めず、去っても気付かずの空気感は居心地がよかった。
俺は聖の側に居るだけで楽しかった。
耳触りの良い声は間違いなく、男もホレるイイ男だった。
聖は背が高くて、まるでモデル並みの背格好だった。すらっとしていて、手足も長くて、優しい面差しで、そこにいるだけで画になるやつだった。
当然、女性からも大人気だった。贈り物は日常茶飯事、職場にもしょっちゅう女性が押し掛けていた。
聖は海の近くの整備工場で働いていた。
海外の映画に出て来そうな、巨大なガレージのような建物で、聖はいつもその一番奥で一人で仕事をしていた。
それはボスのためでもあった。聖目当てにやって来る女性が大騒ぎしないためのせめてもの対策だった。
女性の中には聖の自宅にまで会いに来る子もいた。
絵に描いたようなモテぶりだったけれど、あいつはそういうことを全く鼻に掛けなかった。というより、そもそも全くの無関心だった。
けれど女性を無下にあしらうということは決してなかった。
来るもの拒めず、と言っても、意志が弱いという訳ではなく、一度は丁寧に応対する、という意味で、拒めず。その後は全員にお引き取り頂く。
けれど女性はその丁寧な対応で尚更心を動かされてしまうようだった。
あっさりしているんだけど、冷たくない。受け入れないけど拒絶もしない。そんなところがあいつらしい。
そしてそういうところがどうしたって女性の心を集めてしまうことに繋がっていた。
聖は誰にでも好かれていた。
けれど好かれていたのは人間にだけではなかった。
いつだったか、こんなことがあった。
あれは冬の寒い日で、俺は仕事が休みでいつものようにバイクで聖の職場に遊びに行った。
ガレージに聖の姿が見当たらなくて、ボスに聞いたら聖は早退したと言われた。何かあったのかと聖の家に行ってみると、玄関のドアが開いていた。
あいつは普段から家のカギをかけないやつだけど、玄関のドアが開けっ放しになってることはあまりなかった。
俺は急いで中へ入った。
いつもはリビングの巨大なソファか、床に敷かれた分厚いペルシャ絨毯の上に寝転がってるようなやつだから、具合が悪いならそこで寝ていると思った。
でも聖の姿はなかった。
聖は寝室で頭まで布団をかぶって、ベッドで寝ていた。
よっぽど体調が悪いのかと心配になった。
あいつがベッドに入ってるところなんて見たことなかったから。
俺は布団の上からとんとん、と叩いた。
「どうした?」「具合悪いのか?」
そしたらあいつ…布団から顔半分だけ出して、
“散々だった”って。
確かに相当大変な目にあったらしいけど、普段から家の戸締りをしていなかったあいつの自業自得だったんだ。
聖の家は海が一望できる高台に建っていた。
そこはいわゆる別荘地で、中でもボスの知人から譲り受けた聖の家は一等地だった。家自体も輸入物で、平屋でも天井が高くて、外国サイズのウッドデッキのテラスに出ると、オーシャンビューの最高のロケーションだった。
近隣にある家のオーナーはハイクラスな人ばかりで治安も良くて、オフシーズンになるとほとんど誰も住んでいない空き家になる。
だからなのか、単に無頓着なだけなのか、とにかく聖は玄関だけでなくリビングのガラス戸も、鍵をかけないことはもちろん、夜でも真冬でも開いたままだった。
前の晩、聖はいつも通りガラス戸を開けっ放しでリビングのソファで寝ていた。すると翌朝、あいつは全身のものすごい痒みで目が覚めた。あいつは体を起こそうとして、ところが起き上がることができなかった。目の前に大きな毛の塊があったんだ。それは胸の上にずっしりと重く乗っかっていて、よく見たら巨大な猫のお尻だった。
横を向いたら、枕にしていたクッションの半分を別の猫が占領していて、さらにソファの背もたれと聖の腰の間に2匹挟まっていて、腕の辺りにもう1匹、腰の上にも1匹。それから両足の間にも1匹。見たこともない猫が聖を取り囲むようにして眠っていたんだ。
“どうりであったかいと思った”
というのが最初の感想。
あいつは猫アレルギーなのに、しばらくその体制で起き抜けの眠りをむさぼっていたというんだから‥ほんとあいつらしい。
ただ、その時既に全身が痒かったらしくて、でもどうして痒いのか分からなかったって。自分がアレルギーだってことすら忘れてたんだあいつは。
猫を1匹ずつどかして、その間にも症状は尋常じゃなかったらしくて、痒みと発熱とで相当大変だったらしい。
なのにあいつときたらそのまま仕事に行ったんだ。
他の従業員は普段別の場所で仕事してるものだから、あいつの異変に気が付かなかった。
昼過ぎにボスとばったり会って、あいつはこっぴどく怒られた。
なにせ顔は真っ赤で全身蕁麻疹だらけ、痒みで涙目になってるし、指の先まで熱っぽかった。それですぐに病院に連れて行かれて、薬飲まされて、自宅に押し込まれたんだ。
俺が行った時には熱も下がって、だいぶ落ち着いてはいたけど、石油王の部屋に置いてあるような豪華すぎるベッドに埋もれているあいつを見たら、俺は笑えてきた。
“だから戸締りはちゃんとしろって言ってるのに”
聖が病院から帰った時、またソファに戻らなかっただけましだった。
うっかり猫の毛がたっぷり残るソファに寝ころんでしまうっていう。あいつならやりかねなかったんだ。あいつはそういうぼんやりしたところがあるから。
だって自分が猫アレルギーだって分かっていたら、目の前に猫を見た瞬間にマズイと思うだろう。なのにあいつは全身痒くて熱も出てるっていうのに、のんきに仕事をするような男なんだ。
“仕事になんか行くからそんな酷くなるんだぞ”
ボスは相当ご立腹だった。
“あの野郎はいったいどうなってやがんだ”って。
ボスが言うには、聖は猫を飼っているお客さんが近くに寄っただけで蕁麻疹が出たことがあったみたいで。その時ボスは聖に、猫には気を付けろ、絶対に触るな、って言って聞かせておいたんだって。もし触ったら必ずすぐに病院へ行くようにって。
ボスは俺に、あいつの家の周りに猫除けの仕掛けをしとけって言っていた。
“とりあえずリビングの戸は閉めとけよ”
“猫ならここ以外だって暖かい場所知ってるよ”
いつも平常心で取り乱すことなんかなくて、何があっても表情一つ変えないような男がね、あれはよっぽど堪えたんだろうな‥布団から顔半分出して、まだ真っ赤に充血した目で、俺に訴えた。
“航平、どうにかして”
俺は薬と水を枕元に用意して、それから何か食べたいものはないか聞いた。
聖はお腹は空いてないと答えた。
あいつは日頃から食が細くて、朝ごはんはほぼ食べない。昼ごはんも食べているところを見たことがない。
“当分タバコはやめとけよ”
たぶん俺の言うことはきかないだろうけど。
たぶんタバコは好きで吸ってるわけじゃないんだろけど。
聖が寝ている間に、俺はリビングのソファを念入りに掃除した。
ペルシャ絨毯の上も、めくったフローリングの床も、ソファの裏側も、リビングの隅々まで掃除機をかけて、水拭きをしてやった。
それから毛布とクッションカバーを洗濯して、クッションの中身は天日干しをして、これでもかっていうくらいはたいた。
“もう猫を家に上げるなよ”
そう言ってから、そうか、と思った。
別に聖が猫を家に上げているわけじゃない。
あいつが自分から招くわけではないんだ。
聖が望む望まないに限らず、なぜか寄って来るんだ。
人も、猫も。不思議とね――。
俺もその内の一人だった。